国家神道と国体論に関する学際的研究―宗教とナショナリズムをめぐる「知」の再検討―

(日本学術振興会平成27~29年度科学研究費助成事業(基盤研究(C))、研究代表者:藤田大誠 研究課題/領域番号:15K02060)

第9回国家神道・国体論研究会「近現代日本における国史学・神道論・国体論の交錯」の報告

 本科研共同研究では、平成29年7月29日(土)14:00~18:00、第9回国家神道・国体論研究会「近現代日本における国史学・神道論・国体論の交錯」を國學院大學たまプラーザキャンパス1号館306教室において開催し、首都圏や近畿・東海・中国地方から、多様な分野の研究者やジャーナリストら28名が参加した。藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)の司会のもと、廣木尚(早稲田大学大学史資料センター助教)、西田彰一(国際日本文化研究センター技術補佐員、立命館大学客員協力研究員)、長谷川亮一(東邦大学薬学部非常勤講師、千葉大学大学院人文公共学府特別研究員)の三氏による発表があり、それらを受けて昆野伸幸氏(神戸大学大学院国際文化学研究科准教授)がコメントし、当日の参加者を加えて活発な討議が行われた。各発表の要旨は以下の通り。

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発表1「アカデミズム史学の分節化と史学史叙述」

廣木尚(早稲田大学大学史資料センター助教

 明治期の史学史は思想的背景を異にする複数の歴史認識ヘゲモニー争いと、久米邦武筆禍事件を直接的な契機とする「実証主義史学」の「消極化」という展開過程を主調に把握されてきた。しかし、この見方では、ヘゲモニー争いの場である歴史学の枠組みがアプリオリに設定されており、その枠組み自体の形成過程を対象化できないという難点がある。この点に鑑み、本報告では隣接諸学の形成過程に関する近年の研究に学びつつ、1890年代にそれら諸学との相互作用を通じて形成されたアカデミズム史学の性格について二つの点から検討を加えた。

 一つは史学史叙述の起源についてである。日本初の歴史学の専門誌である『史学会雑誌』は、早くも創刊号から下山寛一郎「史学史」、三上参次「西史叢談」という二つの史学史叙述を掲載した。いずれも中途で途絶したものの、前者はヘロドトスを、後者はギボンやヒュームを主に取り上げて、近代歴史学の枠組みを前提とした史学発達史としての史学史を構想していた。これらの論稿の存在は、日本のアカデミズム史学がヨーロッパ歴史学の系譜の上に自らを位置付けていたことをものがたるとともに、隣接諸学や旧来の学知と分節化するまさにその時に、分節化自体を不可視化する史学史認識を構築していたことを示唆している。

 本報告で検討を加えたもう一つの点は、分節化を経て成立した諸学と旧来の学知との対抗関係についてである。國學院に対する国庫補助の是非をめぐって交わされた『帝国文学』と『新国学』との論争から、アカデミズム史学を含む新旧諸学の間に、当時、互いの境界をめぐる鋭い対立関係が存在していたことが読み取れる。

 『帝国文学』は國學院で営まれている研究・教育がかつての「国学」のような総合性を備えていないとし、帝大こそが「国学」が包含していた諸分野を兼修する機関であると主張した。この批判に対し、『新国学』は、「国学」を「国体」を闡明する学問と位置づけ、帝大の学問に対する価値的な優位性を強調した。

 両者の応酬には、帝大に基盤を置く新しい学問にとって、「国学」が有した総合性は否定されるべきものであったこと、そして、この段階においては「国学」の存在意義を主張する側にとっても、その総合性を正当化の根拠とすることは困難となっていたことが示唆されている。

 以上の事実は、成立期のアカデミズム史学において、隣接領域との境界はいまだ流動的であり、それゆえ、史学史叙述の面では、むしろ流動性を不可視化する叙述が要請されたことを示している。現在の近代史学史像もそのような史学史認識の延長線上にあるとすれば、アカデミズム史学の歴史的性格を把握するためには、その認識自体を相対化し、「消極化」という評価では捉えきれない実践を対象化する必要があるといえる。

 

発表2「国体論者としての筧克彦―その思想と活動―」

西田彰一(国際日本文化研究センター技術補佐員、立命館大学客員協力研究員)

 筧克彦(1872年~1961年)は東京帝国大学法学部教授であり、戦前独自の神道体系である「古神道」「神ながらの道」を提唱した人物である。従来筧は「神がかり」と揶揄され、正面から取り扱われてこなかった。しかし、筧は国体論者として、戦前特に1900年代から1930年代半ばに影響力を持った重要人物である。例えば、貞明皇后満州移民の推進者である加藤完治、当時の著名な政治家・官僚である守屋栄夫や二荒芳徳は筧の影響を強く受けている。そこで、本報告では筧の思想形成や活動の実態、教え子との交流の解明を試みた。

 本報告は三部六章構成である。まず第一部では、筧の思想形成を取り上げた。第一章では筧が1900年代の社会変動に対応するために、健全な秩序の形成とそれを担う人物を養成する方法として、宗教を重視したことを明らかにした。続く第二章では、1910年代以降の思想形成に注目し、君民一体の国体の形成をより強固なものとするために、信仰と実践を兼ね備えた宗教として、「古神道」「神ながらの道」の重要性を説くようになった過程を論じた。

 次の第二部(第三章)では、筧の国家構想とその実現にむけた活動を明らかにした。進講を通して貞明皇后の後ろ盾を得た筧は、自説を広めるために、著作や雑誌の発行、講演に留まらず、政府の委員会にも参加し、活発に発言した。神社制度調査会(内務省)では神社を国の宗教にすべきだと唱え、さらに教学刷新評議会(文部省)では、世俗を司る政府とは別に、祭祀教学を担う神祇府を設立しなければならないという宗教的国体論を繰り広げた。

 さらに第三部では、教え子たちとの活動も視野に入れて論じた。まず第四章では、筧が考案した〈やまとばたらき〉(皇国運動/日本体操)という体操の実践過程を検討した。この体操は、体操を通して君民一体の神話世界の体験と精神的教化を図るものであった。そして、貞明皇后の主導により宮中で実践され、さらに二荒が理事長を務めていた少年団や、加藤の農業移民訓練所で採用され、終戦まで続けられたことを明らかにした。ついで第五章では、筧がその教え子たちと取り組んだ、誓の御柱という記念碑の建設運動の実態に言及した。そして、筧たちがこの記念碑を作ったのは、民衆の政治参加を肯定しつつも五箇条の誓文の精神に基づく君民一体の国体の精神を人々に身につけさせるためであったことを解明した。最後の第六章では、筧とその教え子たちの植民地での活動を考察し、筧たちが遅れた植民地を宗教的に教化するという意図の下に活動していたことを明らかにした。だが、筧の学説は植民地の実態に即しておらず、現地では受け入れられなかったことも判明した。

 筧の国体論とは、国体論に宗教を導入することで、国民の政治参加を認めつつ、内面への宗教的な教化と身体的修養の重視によって国民の自発の活性化と制御を図るものであったというのが本報告の結論である。筧の国体論は秩序を維持していく上で有用だと考えられ、社会的エリート層に支持された。だが、国体明徴運動がもたらした既存秩序の崩壊によって、1930年代後半以降徐々に退潮し、傍流に押しやられた。

 

発表3「戦後における「国体」観の断絶と変容―教育勅語の解釈と宣伝をめぐって―」

長谷川亮一(千葉大学大学院人文公共学府特別研究員、東邦大学薬学部非常勤講師)

 本報告では、1970年代に以後になされた教育勅語の宣伝・広布活動について取り上げ、その中でも特に、明治神宮で頒布されている『大御心 明治天皇御製教育勅語謹解』(明治神宮社務所、1973年)、『たいせつなこと』(明治神宮崇敬会、2003年)、『新版 明治の聖代』(明治神宮、2012年)にそれぞれ収録された、教育勅語の現代語訳について検討する。

 『新版 明治の聖代』の訳文は村尾次郎訳をもとに阪本是丸監修で作成されたもので比較的正確であるが、『大御心』掲載の「国民道徳協会訳」は、「我カ皇祖皇宗」と「爾祖先」に同じ「私達の祖先」という訳を当て、「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」を訳し落とし、「朕カ忠良ノ臣民」が「善良な国民」とされるなど、天皇・国体論にかかわる側面を削ぎ落とし、天皇と臣民と区別を打ち消した意図的な誤訳となっている。類似した性格は、『たいせつなこと』の訳文にも見られる。

 戦後の政治家による教育勅語“擁護”発言においては、人間関係に関する徳目が強調される一方、「忠君」的な要素は否定ないし無視される傾向が見られる。こうした傾向について、『神社新報』1974年5月27日付「教育論議を空騒ぎにするな」は、「田中(角栄)首相あたりも、教育勅語にしばしば言及するが肝腎の皇運扶翼は言はない」と批判している。

 国民道徳協会訳は、元衆議院議員で政治評論家の佐々木盛雄(1908-2001)が、著書『甦える教育勅語』(国民道徳協会、1972年)で公表したものである。現代語訳によって教育勅語を宣伝しようとする活動は1960年代末から見られ、その中には「皇運」を「日本民族」「国」に置き換えようとするものも見られるが、「天壌無窮」を訳し落したのはこの佐々木訳が最初である。1972年に明治神宮財務部長の谷口寛教育勅語に関するパンフレットを企画した際、佐々木訳が「国民道徳協会訳」として採用されたことが、広まるきっかけとなった。さらに国民道徳協会訳は、神社本庁による「教育正常化運動」(1979-82年)、全国敬神婦人連合会発行のパンフレット『教育勅語の平易な解釈』(1979年、『大御心』の抜粋)、「日本を守る会」発行の絵本『たのしくまなぶ12のちかい〈教育勅語から〉』(1979年)などを通じて全国に流布した。これに対して、教育勅語に批判的な立場からは意図的誤訳について数多くの指摘がなされているが、神社神道の側からは、宣伝・教育目的による“方便”と見なれさているためか、特に問題とされている様子はない。たとえば神社本庁講師の石井寿夫は「教育勅語を戦後派に教えるのには、現代っ子にもなじみやすくわかりやすい表現で説きなおす工夫がいる」「現に、普及を志される方々は、しばしば「現代訳」をつけている」(1980年、石井『教育勅語 その現代的意義』あしかび社・事務局、1991年、所収)と説いている。