国家神道と国体論に関する学際的研究―宗教とナショナリズムをめぐる「知」の再検討―

(日本学術振興会平成27~29年度科学研究費助成事業(基盤研究(C))、研究代表者:藤田大誠 研究課題/領域番号:15K02060)

第11回国家神道・国体論研究会「慰霊・追悼・顕彰とナショナリズム」の報告

 本科研共同研究では、平成29年11月25日(土)14:00~18:00、第11回国家神道・国体論研究会「慰霊・追悼・顕彰とナショナリズム」を國學院大學たまプラーザキャンパス1号館306教室において開催した。多様な分野の研究者16名が参加した。司会の藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)が趣旨説明を行った後、民俗学の立場から及川祥平(川村学園女子大学文学部専任講師)、宗教学の観点から中山郁(國學院大學教育開発推進機構教授)、宗教社会学・宗教人類学のアプローチから粟津賢太(上智大学グリーフケア研究所研究員)の3名が発表した。そして、政治学の観点から田中悟(摂南大学国語学部准教授)がコメントした上で、国家レベルと地域社会レベルとの相違と連関、或いは時空両面の観点に加え、国際比較の視点をも踏まえて、空間や施設、儀礼や言説を対象とした記憶の想起に関わる個別具体的な慰霊・追悼・顕彰の様相、実態とナショナリズムとの関係について、活発な討議が展開された。

 各発表の要旨は以下の通り。

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発表1「偉人顕彰の民俗学―ローカルな場からナショナリズムを捉える―」

及川祥平(川村学園女子大学文学部専任講師)

 本発表では偉人顕彰への民俗学的アプローチの成果をふまえ、ローカルな場がナショナリズムに包摂されていく/されずにいく様態を、主に贈位大河ドラマ等の歴史作品を素材として議論した。

 贈位は死者に位階を贈る行為であり、近代に独得の展開を遂げた。すなわち、維新の功労者・殉難者を評価するために贈位が行なわれる中で、歴史上の「国家功労者」にも位階を贈ることが盛んに行なわれていく。民俗学の立場から贈位に注目する際に、関心の対象となるのは、この贈位が地域社会や人びとの生活になにをもたらしたのかという問題である。そのひとつとして、本発表では、伝承の整理に作用する面があったことを挙げた。例えば、贈位は、贈位記を読み上げる場(贈位対象者の墓前ないし神前)、贈位記を下賜すべき人物が明らかである必要があり、各地の墓や塚の伝説、または各家の系譜伝承に考証が加えられる契機となった。とりわけ留意すべき問題は、こうした贈位へのリアクションをどのように理解すべきかということである。贈位は「上からの偉人化」という側面を有するが、一方で、地元の人物への贈位請願も行なわれており、「下からの偉人化」とでも呼ぶべき動きも発生している。

 贈位は、「上からの」思惑としてはローカルな人物のナショナルな人物への読替えであり、郷土を国家へ接続させ、皇国としての現在を規定する「歴史」の再編とみなせるが、「上からの偉人化」と「下からの偉人化」との間には「ずれ」が存在した。例えば、大正元年贈位された大岡忠相は、いわゆる「大岡裁き」の名奉行像とは異なる業績が評価されて贈位されたが、実際にその贈位を祝い、忠相を崇敬していく人びとの念頭にあったのは、講談等を通して広まっていた名奉行のイメージであった。

 一方、人びとの歴史意識をナショナルな枠組の中に回収していく装置としては、現代社会におけるNHK大河ドラマ等の歴史物語をも想定することができる。大河ドラマは、「ご当地ブーム」への期待から、各地自治体で盛んに誘致活動が展開されている。これらの映像メディアは、各地で待望されているかのように語られがちである。

 しかし、この種の映像作品に人びとは必ずしも好意的であるわけではない。「信じたいものとしての歴史」と反する時、それらは情緒的な批判の対象ともなる。むしろ、それらの作品への失望や憤懣、違和感が、自己や自地域への関心が高まり、歴史上の人物の末裔の組織が結成されたり、郷土史研究団体の発足につながった例があることを本発表では示した。

 

発表2「日本における戦地慰霊とナショナリズム

中山郁(國學院大學教育開発推進機構教授)

 粟津賢太氏は戦没者追悼・記念の構造物とそこで行われる儀礼を「記憶の場」と捉え、そこは「想起の実践の場」であり「記憶のポリティクスが発動する場」と捉えられると論じている。本報告では氏の議論をふまえつつ、国内の慰霊碑や記念施設ではなく、「バトルフィールド」において行われる「想起の実践」について、戦地巡拝や遺骨収集の参加者の事例からその特色について考察することを試みた。

 まず、戦地慰霊における「想起」の事例として、薬師寺管長で海外慰霊法要の主催者であった故高田好胤師の事例を検討した。高田師は慰霊の旅を通じて①死者への想起、②遺族・戦友の気持ちへの想起、③現代日本の社会に対する想起、を繰り返していた。その結果、当初供養の対象として捉えるていた戦没者を、日本人全体の業(共業)を背負い死んだ存在と位置付け直したうえ、その慰霊活動の位置付けも「慰霊法要」から「慰霊行」、さらに「英霊悔過」へと深化させていることが明らかにされた。

 次に、遺骨収集従事者が現場で経験する「想起」については、日本青年遺骨収集団(JYMA)刊行の『いま、何を語らん』26年度~28年度報告集から考察した。遺骨収集参加学生達が現場で行う「想起」は、①かっての戦場という空間からの想起、②遺骨からの想起、③遺品からの想起、④遺骨収集のありかたへの想起、⑤作業を共にする遺族・戦友の気持ちの想起、⑥自身の能力や生き方への想起に分類することができる。そのうえで、学生たちはモノである遺骨の人間性を想起することでその尊厳を回復しようとしていること、また多様な参加動機をもつ学生たちが、収骨現場で想起を繰り返すことを通じ、ゆるやかにナショナリズム的な認識を持つようになることがあきらかにされた。

 一般的に、国内における「戦没者祭祀」では、主催者が発信する儀礼の意味を参加者は、記念碑等の象徴(シンボル)を通じて「想起」するという、間接的かつ受動的な「想起」を実践している。これに対し戦地で慰霊や遺骨収集参加者は、主体的にバトルフィールドに赴くという意味で身体性と能動性を帯び、そこで遺骨・遺品など、直接戦争と死を喚起させるモノからの直接的な「想起」がなされているといえる。こうした直接的な想起は、象徴を通じた想起に対し、説得力ある意味を紡ぎ出し、ナショナル言説の補強や現代社会の相対化、そして新たな慰霊活動を生成する力となってゆくと考えられよう。

 

発表3「我々は沈黙によって何を語るか?―戦没者祭祀の宗教社会学―」

粟津賢太(上智大学グリーフケア研究所研究員)

 本報告では、Youtubeなどの映像配信サイトへ投稿された黙祷の様子(長崎の原爆の日に遠吠えをするペットの犬やSNSで炎上した「黙祷なう」までの事例、世界各地で行われた東日本大震災犠牲者へ捧げられた黙祷の様子、横浜港で鳴らされた弔意のための汽笛、私鉄駅で行われた弔意のための五分間の停車等が紹介された。黙祷儀礼は日本のみならず、イギリスやアメリカ、あるいはヨーロッパ諸国だけではなく、中国やイスラエル等、現在多くの国家で行われている。戦没者たちの追悼のため、災害や銃撃事件の犠牲者たちのためにわれわれは黙祷を行っている。

 次に「黙祷」に関する先行研究の紹介と批判が行われ、これまでの報告者の研究(粟津賢太『記憶と追悼の宗教社会学戦没者祭祀の成立と変容』北海道大学出版会、2017年、が紹介された。

 黙祷儀礼がイギリスに始まることを述べ、その歴史について紹介した。今日的な形の黙祷はイギリスで始まる。第一次大戦戦没者を追悼するための二分間の黙祷が行われた。議会文書によればこの黙祷のモデルは大英帝国のアフリカ領からもたらされたものである。当時の英領南アフリカケープタウンの市長であったハリー・ハンズ(sir Harry Hands)の創案によるものである。もうひとつ先例は、1919年1月7日にニューヨークで行われたセオドア・ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt)大統領の葬儀である。

 第一次世界大戦は大戦争であり、さらに遺体を本国に送還させない方針は、遺族たちに大きな悲しみを与えた。しかし従来のキリスト教がこうした遺族たちの心情に応えられなかったため、死後の生の確証を得るため、あるいは死者との直接的な交流が可能であることを信じる心霊主義が興隆した。追悼式では二分間の黙祷の最中に霊となって帰還した兵士たちの心霊写真が撮られた。

 イギリスで行われた最初の二分間の黙祷の様子は、日本のメディアでも報じられた。黙祷の日本への導入は、1921年裕仁親王がイギリス王室を表敬訪問した際、現地の無名戦士の墓や戦没者記念碑であるセノタフを訪れた時の経験がもとになっている 。

 ヨーロッパ訪問から2年後、関東大震災が発生し、東京市内では多くの犠牲者を出した。関震災の翌年である1924年東京市をはじめ、一周忌の追悼行事が計画されていたが、その機会に天皇皇后によって犠牲者に対して花輪を捧げる儀式が行われた、その後、天皇親王の居城である東宮御所(現在の赤坂御苑)において皇室の儀礼としてイギリス式に「二分間」の黙祷が行われた。震災犠牲者に対する、特定の宗教・宗派を明示しない形による敬意の表し方が初めて日本に導入された。黙祷は陸軍記念日靖国神社臨時大祭などの機会に行われていき、皇居「遥拝」などと同様に、学校や軍隊を媒介として浸透していった。

 集合的な行為である黙祷の日本での起源は、明治天皇大葬の際に、東京市長が提案した「三分間稽首遥拝」である。遥拝とは、遥かに隔離した位置から神宮・神社を拝することであるが、国民的な集合的儀礼としての遥拝の起源は英照皇太后大葬場祭にある。日本における黙祷は宗教的に中立的なものとして導入され、皇族や場所へ向けた遥拝と融合し変容していった。

 形式的な行動である儀礼は、人間の行為を遂行的なものとすることによってある認知的な効果を社会にもたらす。それは「合意を必要としない統合」であり、その遂行性が問われる。そこに同調の圧力が発生する。儀礼において、社会は合理性のフェーズから遂行性のフェーズへ移行する。遂行性のフェーズでは集団的な同調的な行為と感情が優先される。儀礼の場は、合意なき統合が可能となる機会である。黙祷とナショナリズムとの親和性が指摘された。