国家神道と国体論に関する学際的研究―宗教とナショナリズムをめぐる「知」の再検討―

(日本学術振興会平成27~29年度科学研究費助成事業(基盤研究(C))、研究代表者:藤田大誠 研究課題/領域番号:15K02060)

第10回国家神道・国体論研究会「「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」再考」の報告

 本科研共同研究では、平成29年9月30日(土)14:00~17:30、第10回国家神道・国体論研究会「「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」再考」を國學院大學たまプラーザキャンパス1号館306教室において開催し、多様な分野の研究者ら23名が参加した。

 今回の研究会は、日本宗教学会第76回学術大会パネル発表「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」(パネル代表者:小島伸之、平成29年9月17日(日)13:15~15:15、於東京大学本郷キャンパス)の内容について再考することを目的として開催された。同パネル発表は、原則として日本宗教学会会員のみが参加可能であったため、今回、このパネルの内容を同学会外に開き、新たにコメンテーター2名を設定して歴史的観点からのコメントを受け、改めてじっくりと議論を行った。

 司会の藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)が趣旨説明した後、寺田喜朗(大正大学文学部教授)、藤田大誠、小島伸之(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)が発表。さらに、この日は参加出来ず紙上参加となった高橋典史(東洋大学社会学部准教授)と平山昇(九州産業大学商学部准教授)の発表について藤田大誠が紹介し、小島伸之が日本宗教学会におけるパネル発表の様子も含めパネルのまとめを行った。

 一旦休憩の後、畔上直樹(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)と昆野伸幸(神戸大学大学院国際文化学研究科准教授)がそれぞれコメントした上で、登壇者間でやり取りするとともに、フロアにも開いて討議を行った。

 議論を進める中で、今回取り上げた神社界・宗教界や宗教運動、社会運動、観光、移民などをめぐる諸領域の具体的事例からは、昭和10年における「天皇機関説事件」と「国体明徴運動」が、戦時下における社会と宗教に関する言説に対して、目に見える形で大きな変動を来たすような直接的な指標となったと見做すことは難しいことが明らかとなった。視野を前後に広げて捉えるならば、大正期以来、徐々に地殻変動的に思想的・社会的変化は生じており、より強い直接的なインパクトとしては、昭和6年の満洲事変や同12年の支那事変(日華事変、日中戦争)などが齎した影響の方が大きい可能性が考えられる。しかしながら、少なくとも同10年以来、あらゆる立場の人々にとって、次第に「国体明徴」という標語やその意味内容を前提として様々な神道的・宗教的言説がなされなければならないという切迫感がより一層充満する社会的状況へと至ることは疑いなく、ここから新たな段階に入って行くという意味では、昭和10年の「国体明徴運動」を以て「線が引かれた」面もあるのではないか、という見方も一定程度共有されたように思われる。

 各発表の要旨は以下の通り。

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パネル「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」

 パネル代表者 小島伸之(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)

 本パネルは、近代日本の宗教とナショナリズムをめぐる「知」の諸相の具体的な一側面として、国体明徴運動下、昭和10年(1935)前後における日本社会と宗教をめぐる諸事例について具体的に分析することを目的としたものである。

 昭和10年(1935)は、すでに大正期から問題とされてきた「天皇機関説」が、野党・軍部・右翼団体を中心とした「国体明徴運動」の展開によって、その代表的論者であった憲法学者美濃部達吉への直接的排撃となり、最終的な政治的局面としては一〇月の岡田啓介内閣の第二次国体明徴声明により、「天皇機関説」が「国体に戻る」ものとして否定され、「芟除」されることになった年である。

 「天皇機関説事件」や「国体明徴声明」の影響については、これまで法制史、政治史、思想史、教育史的観点から豊富な研究の蓄積がなされてきている。一方、宗教史や社会史的観点から、昭和10年前後において、社会や宗教界にどのような変化があったのか・なかったのかについての具体的な事例の検討は、非常時や戦時下を対象とした研究に比して、十分な研究の蓄積がなされていない状況にある。とりわけ、それまでも行われてきた神道的或いは宗教的な「国体論」やそれに関連する諸運動、さらには一般社会の受け止め方、そして天皇観などが、この年を契機としてどのように変化したのか、或いはしなかったのか、という点は必ずしも詳しくは明らかにされていない。

 そこで本パネルは、こうした昭和10年前後における政治的・社会的状況の下、宗教活動、信仰生活を含むさまざまな社会生活の局面において、国体明徴運動的言説がどのような影響を与え/また与えず、「国体」に関する言説・運動はどのように展開されていたのか。またそれらの諸事例にみられる共通性と異質性はどのようなものであるのかという問題意識に基づき、「天皇機関説事件」が起こった昭和10年(1935)という年をメルクマールとしてその前後の時期に着目するとともに、宗教運動、社会運動、観光、移民などをめぐる諸領域の中から具体的な事例を取り上げることにより、「国体明徴」が大きな社会的課題となっていた昭和戦前期における日本社会と宗教の状況について、比較の視点から実証的に明らかにすることを試みた。

 

発表1「谷口雅春における天皇と日本―昭和一〇年前後を中心に―」

 寺田 喜朗(大正大学文学部教授)

 本発表は、昭和10年前後の谷口雅春(明治26~昭和60)の天皇と日本をめぐる言説から国体明徴運動が新宗教へ与えた影響を考えることを目的とする。

 大正6~10年まで大本の活動家だった谷口は、『皇道霊学講話』(大正9)において「全世界の人類が幸福な人間らしい生活を送るためには…日本皇室が世界を統一しなければならない」と述べていた。立て替え立て直しに当初は強い魅力を感じていたが、大正11年5月5日が迫り、狂奔状態に陥る教団へ違和感・嫌悪感を抱き、綾部を去った。その後の谷口は、(物質的な)世界の改造という発想自体を否定する唯心論的な思想に至り、生長の家を立教する(昭和五)。『生長の家』創刊号では、万教帰一の立場から「心の法則を研究し、その法則を実際生活に応用して、人生の幸福を支配するために実際運動をおこなう」ことが宣言される。昭和10年、『主婦之友』に紹介記事が載り、全国主要紙に大広告を打つことによって知名度を確立させる。昭和9年4月時点で15ヶ所だった支部は、翌年9月には552ヶ所に急増している(『生命の実相』は80万部、定期購読者は3万人)。昭和10年は生長の家の大発展期であった(人々を魅了したのは「奇跡の神癒」とよばれる現世利益。皇道経済の実現を掲げる昭和神聖会・大本は同年12月に弾圧されている)。

 昭和11年、「われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点を生きている」「どんな時にも日本国が立ち直ることができた重心は天皇がましましたから」と述べられ、指導者講習会では、「天之御中主神」は「宇宙の真中の神」であり、「天皇」は「天之御中主神の全徳の御表現(おんあらわれ)」であり、「日本国体の尊さ」は「天皇陛下に中心帰一する働が単に理論ではなく具体的に現れている点」にあると語られる。昭和12年には、「非常時に労働争議を停止せしめ、反戦思想を抑圧」するのに「最も効果がある」とアピールし、昭和14年の講演では、「本当の日本主義は八紘一宇主義だから一切を包容する精神」であるべきであり、「八紘が一宇となったら」天皇は「世界の最勝最尊」の存在にならざるを得ないと述べられる。翌年には「すべての森羅万象」は「天皇の大御いのちの顕現」であり、「生命が尊きは」「天皇の大御いのちの流れであり・岐れであるが故に尊き」と主張する「天皇絶対論」が発表される。

 つまり谷口は、昭和5年に生長の家を立教するが、当初は天皇や日本に特殊な価値を認める言説を殆ど発信していなかった。またその教理は、大本や北一輝のような現実的な体制批判・社会改造の発想がなく、「心の法則」を知り「日時計主義」「礼拝主義」で「心をみがき」「朗らかに生きる」ことによる現状打破・現世利益を約束するものだった。天皇や日本に関する言説の比重が増すのは昭和10年前後だが、国体明徴運動が展開された同年2月~10月に天皇機関説を批判したり(戦後、谷口は、開戦当時「天皇は機関であって自由意志が行われなかった」と述べている)、民本主義自由主義個人主義・デモクラシーを批判する動きは見せていない(一貫して批判されるのは唯物論)。またこの時期、国家から天皇・国体にまつわる言説への干渉はなく、ジャーナリスト・右翼団体在郷軍人からその異端性を批判されることもなかった。日中戦争(昭和12)・国家総動員法(昭和13)によって総力戦体制へ社会・経済が再編されるプロセスにおいて、ファナティックな天(皇)賦生命論及びグローバルな反本地垂迹説が説かれるに至っている。畢竟、国体明徴運動が谷口雅春の言説に直接的な影響を及ぼしたことは特定できない(他の新宗教も同様)。ただし、天皇と日本に関する言及頻度を高めたという意味において間接的な影響があったことは確実といえよう。

 

発表2「「国体明徴」と神社界・宗教界」

 藤田 大誠(國學院大學人間開発学部教授)

 昭和10年(1935)の「天皇機関説事件」や「国体明徴運動」については、専ら政治史的・法学史的・思想史的・教育史的観点から論じられてきたが、神道史や宗教史の観点から「国体明徴運動」を大きな指標として捉えた研究はさほど多くない。

 阪本是丸は、同6年勃発の満洲事変から徐々に「神道的用語」による「国体論」の裾野が拡大し、同10年の「国体明徴運動」以降、そうした傾向、雰囲気が日本社会全体に充満していくとともに、その内容も「国内」限定から「普遍」へと向かうベクトルが急速に高まったが、神社界の要請は内務省において容易に実現出来なかった一方、それまで後手に回っていた文部省は「失地回復」のため「教学刷新」を打ち出し、大きな存在感を示したと指摘している(「昭和戦前期の「神道と社会」に関する素描」)。実際、昭和12年1月に内務省が内閣に提出した「国体明徴ニ関スル施設ノ件」(国立公文書館所蔵「国体明徴問題」)は、神宮関係施設調査と神社行政振張、出版物検閲に関する3事項のみしか挙げられておらず、11の実績と8の予定を記した文部省と比較すると段違いに内容が乏しい。

 昭和15年に玉澤光三郎検事が執筆した『所謂「天皇機関説」を契機とする国体明徴運動』(司法省刑事局)は、国体明徴問題以来、「一般的に喚起された国体観念の自覚」に促される形で、宗教界における「自粛自戒、教義刷新等の傾向」が特に顕著となり、「宗教警察の強化」も図られたとするが、他方では「支那事変に依る国家意識の昂揚と相俟つて一層深刻化するの勢」をも指摘しており、後付けの評価も含まれている可能性がある。

 皇道大本を中心とする昭和神聖会は同十年二月末以降、「天皇機関説撲滅運動」を活発に展開し、統管出口王仁三郎は、日本は立憲君主国ではなく、「万世一系の 天皇が現人神として永遠に統治し給ふ世界無比の神聖皇道国」で「地上唯一の天立君主立憲国」と述べた(『神聖』第7号)。しかし皇道大本は、同年12月に一斉検挙された(『特高外事月報』昭和10年12月分)。内務省警保局は政治団体の昭和神聖会を注視する一方、「国体」の異端では済まぬ皇位簒奪・革命計画を立証するための内偵調査をしていた。

 里見岸雄(田中智学三男)は、「国体科学的見地」から「天皇機関説」と「天皇主体説」を止揚した「天皇統治権実論」を説いた(『国体憲法学』二松堂書店)。また、今泉定助(皇道発揚会会長)は「全世界を統一し、全人類を救済することは、天津日嗣の天皇の天業であらせらる。これが為めには先づ国体を明徴にして、人生社会に人類の理想を実現せねばならぬ」と述べた(『皇道論叢』桜門出版部)。神社界の「国体明徴」は当時の「天皇機関説」批判の風潮と何ら異ならないが、室松岩雄(國學院第4期生)は、「東西の文華文明を能く調和し更に世界の文明を醇化して人類の平和と完美を図ることは当しく我が国民の理想であり、日本帝国の天職」と記し、同12年の文部省『国体の本義』の主張を先取りしている(『国体の明徴と政治及教育』皇学書院・会通社)。そして、ヨハネス・クラウス(上智大学教授)の『教育原理としての皇道』(思想・科学研究所)は、「カトリック教会に於て、ペトロの磐たる教皇が統一的活力的中心をなし、又崩壊に対する堅固なる堡塁をなす如く、日本に於ては 天皇が「生命的中心」をなし、又国民的生活と力との永久に尽きざる源泉をなし給ふ」と日本人と見紛う国体論を書き、西本願寺の利井興隆は、「万邦無比なる国体を明徴にし、最も其の精神を宣揚なされたのが聖徳太子であらせられた。これを指導精神として発達したのが日本精神」と典型的な仏教的国体論を述べた(『国体明徴と仏教』一味堂出版部)。「国体明徴運動」は、プロテスタントの「日本的キリスト教」も含め、神社界・宗教界問わず「国体明徴」の弁明を強いられる時勢を齎したとはいえよう。

 

発表3「昭和前期の宗教者における日系移民と国家帰属」

 高橋 典史(東洋大学社会学部准教授)

 昭和10年代前後の日本の仏教界における「国際化」に向けた動きの活発化の流れにあって、米国に生まれ育ち、日米の二重国籍を有する者も多かった日系移民の第二世代(以下、「二世」とする)を、日本の仏教関係者たちはどのように位置づけて対応していこうとしていたのだろうか。本発表では、二世たちに向けた教化・教育活動のなかでも、とくに日本留学をめぐる仏教関係者たちの言説に着目し、国際仏教協会・米布研究会・日本米布協会などの諸団体の資料を中心に当時の動向を明らかにすることを試みた。

 そもそも、昭和戦前期の仏教関係者たちは、「日本精神」と「仏教精神」を兼ね備えた二世たちが、関係悪化する日米の「架け橋」として活躍することを期待していた。そこで注目されたのが、二世の日本留学への支援だった。日本社会に実際に接し、現地で日本語、日本文化を学ぶことを通じて国際的に活躍しうる二世たちを育成することを企図したのである。とくにハワイ・北米大陸の日系移民社会において大きな教勢を誇っていた浄土真宗本願寺派などは、こうした二世の日本留学関連の諸事業に精力的に携わり、その結果、多くの二世留学生たちが来日することとなった。

 だが、こうした日本留学の支援事業は、必ずしも当初の目論見通りの結果を生むものではなかった。というのも、米国で生まれ育ちつつも二重国籍を保持する者が多かった二世たちは、排日論が展開していた米国社会においては国家への忠誠に関して強い疑いの目で見られており、非常に複雑で困難な立場にあった。また、民族的なルーツを共有しているとはいえ、祖国日本の内地の「日本人」たちとは、大きく異なる米国的な価値観やライフスタイルを持つ二世たちは、日本での生活においては特異な存在として主流社会からは周縁化されることも少なくなかった。そのうえ、日中戦争の勃発後、日本国内においてアジア地域での権益の拡大や植民に関心が高まるなかで、仏教界もそうした国策への接近を強めていったことは、二世たちと日本の仏教関係者たちとの隔たりを広げることにもつながっていったのである。

 実際のところ、日本の仏教界による二世の日本留学において大きな役割を果たした日本米布協会の事業でも、「日本精神」と「仏教精神」を兼備する国際的な人材育成というよりも、「日本精神」のもとにある言語と文化の教育がその多くを占めていた。また、「日本精神」と「仏教精神」を身につけた「米国市民」としての二世の育成という同協会の理想とは裏腹に、現実には二重国籍を有する多くの二世たちの日本での兵役義務の問題等への対応にも追われていく。さらに、日本支配下満洲や朝鮮への見学旅行の開催などは、アジアにおける日本の覇権とその地位の正当性を二世に理解してもらうことを意図した側面もあり、当時の同協会の国策への接近を示す事例であるといえよう。

 以上のように、本発表では、昭和10年前後という時代状況下において、日本の仏教界が、その関心を日系移民の移住先も含む欧米からアジア(「大東亜」)へシフトさせていくなかで、当初においては宗教的な理念が込められていた二世の日本留学関連事業が、国策に従属するものへと変質し、当の二世留学生たちとのあいだの齟齬も拡大していった様相を明らかにした。

 

発表4「昭和戦前・戦時期における「聖地」ツーリズム」(パネル当日は、「戦間期における「聖地」ツーリズム―伊勢神宮を中心に―」と題して発表)

 平山 昇(九州産業大学商学部准教授)

 本報告では、大正期以降の日本社会において天皇ナショナリズムの高揚のなかで「聖地」として重視されるようになった場所(皇室ゆかりの神社+天皇陵)へのツーリズムについて、主として伊勢神宮への参拝ツーリズムに注目して検討した。神宮参拝者数は第一次大戦中から急増していくが、前半ではこの増加の背景にとして考えられるナショナリズム(政治思想)の文脈とツーリズム(社会経済)の文脈の双方を検討した(前者については、大逆事件天皇の代替りも含めた明治末期以来の動向までさかのぼって検討した)。後半では、「聖地」ツーリズム活性化のなかで台頭する新たな参拝層について検討したうえで、本パネルのテーマとなっている一九三五(昭和一〇)年に生じた国体明徴問題の時期の動向についても検討をくわえた。これをふまえ、以下の二点の考察をおこなってまとめとした。

 第一点は、交通・旅行業界/メディア(新聞・雑誌)/教育界/神社界/実業界/地域社会といった一枚岩ではない様々な主体が伊勢神宮ツーリズムに絡み合うようになったということである。これは、これまで「国家神道」の主たる推進主体として見なされてきた神社神道界と内務官僚といった人々の役割は、かなり限定的であったということでもある。そして、交通・旅行業界や実業界は、言説・思想としてはこれといってオリジナリティのあるものを生み出したわけではないのだが、既存の言説資源を再利用しながら(しばしば巧みなマーケティングや豊富な財力によって)「言説」と「体験」の共有層を広めていく役割を果たした。大衆社会化状況のなかでのナショナリズムのあり方について考えるとき、言説の中身だけではなく、それを社会に拡散させる「声量」「熱量」「反復量」といったものの影響力も視野に入れる必要があるのではないだろうか。

 第二点として、「体験すればわかる(体験しなければわからない)」という紋切型を特徴とする体験至上主義が大逆事件をきっかけとして伊勢参宮をめぐる言説のなかで広まっていくが、この体験至上主義と結びついた「聖地」ツーリズムの基本型は昭和初期までにすでに出来上がっており、満州事変、国体明徴運動、日中戦争開始といったナショナリズム高揚の節目ごとに熱を帯びてはいくものの、これらの節目によって何らかの重要な質的変化が生じることはなかった。ただし、「聖地」を訪れる人々の集合体が増幅していくなかで、これが「国体」の尊厳、あるいは、国民の「国体」観念に「宗教」性が内在していることを表すものとして、直感的に解釈されていった。その意味において、「聖地」ツーリズムは「国体」論にも一定の影響を与える側面があったと言えよう。

 

発表5「昭和10年前後の消防と国体」

 小島 伸之(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)

 本報告は、昭和10(1935)年前後の消防界と「国体」の関係を事例に、具体的には、①「消防招魂祭」及び②消防に深くかかわった内務官僚(主として松井茂)の消防に関する言説における「国体」的要素の変化に着目し、国体明徴運動下の昭和10年前後における社会と国体を考察することを試みたものである。

 「我国開闢以来消防歴史上最初の企て」(松井茂)である「消防招魂祭」については、従来の慰霊研究、消防史研究、警察史研究などではほとんど触れられてこなかった。

 同招魂祭は、靖国神社臨時祭と同日の昭和10年10月23日、内務省と大日本消防協会の主催により東京日比谷公園で挙行された。明治初年以来の殉職消防組員、殉職消防官吏、物故消防功労者計七九七註を祭神に、消防活動に関係して殉職した者を、《国家レベル》で慰霊・顕彰する初の試みであり、当日はラジオにより全国中継がなされている。当日の主催関係者や参列した遺族代表の声からは、戦死者と「同様」に消防殉職者が扱われたことに対する意義の表明を多数拾うことができる。

 この「消防招魂祭」開催の背景には、①明治以来の特に地方における消防の近代化の遅れや国家レベルのテコ入れの薄さに対する危機意識、②昭和8(1933)年のゴーストップ事件で顕在化した軍と警察の対立、③②も前提とした来るべき防空法の内容をめぐる防護団―陸軍と消防組―内務省の対抗関係などを挙げることが出来る。

 なお、同招魂祭の開催決定に際し、一時的な慰霊・顕彰である招魂祭開催に止まらず、恒久的な消防殉職者の慰霊顕彰施設を求める声もあがり、後の昭和18(1943)年に、「消防神社」が大日本警防協会構内に建設されている。

 続いて、内務官僚の消防に関する言説における「国体」的要素とその変遷についてである。大正15(1926)年の松井茂『国民消防』においては、日本武尊の東夷征伐における「逆火」など神話的内容が簡単に紹介されており、また、「消防精神」を「国体の基礎的観念である智仁勇」に関連付ける言説も見ることが出来る。一方、消防には国家的精神が必要とされながらも、その内容は、市町村レベルではなく国家レベルで消防を考えるべき、という主張であり、そこでの国家的精神は「国体」と関係付けられていなかった。昭和10(1935)年の松井の論説(「消防の時事問題と消防人の覚悟」)には、「元来我が国体に於ては、市町村なる自治体すらも 陛下ましましての上の存在である」などの言が見られ、昭和12(1937)年の論説(「国民精神と消防精神」)には「例へば 天皇機関説の如きは(略)我が国体の解釈上断じて容認され得べきではない」という「国体明徴運動」の影響を直接的に示す表現も現れている。このように、消防に関する内務官僚言説には、昭和10年前後で、「国体」的要素の増加を見ることが出来、その点においての変化が存在する一方、その主旨において「国家レベルでの消防へのテコ入れ」という松井年来の主張の中心は基本的に一貫しているとみることもできる。

 つまりこうした変化は、「国体」の社会的強調に伴って消防に関する言説・思想が本質的に変化ではなく、消防に関する言説を正当化する資源として「国体」的要素が導入されていったことによるものとみることが出来るのではないだろうか。

 今後さらに検証・考察を続けていきたい。