国家神道と国体論に関する学際的研究―宗教とナショナリズムをめぐる「知」の再検討―

(日本学術振興会平成27~29年度科学研究費助成事業(基盤研究(C))、研究代表者:藤田大誠 研究課題/領域番号:15K02060)

第8回国家神道・国体論研究会「近代日本の環境形成と宗教・ナショナリズム」の報告

 本科研共同研究では、平成29年5月27日(土)14:00~18:30、第8回国家神道・国体論研究会「近代日本の環境形成と宗教・ナショナリズム」を國學院大學たまプラーザキャンパス1号館306教室において開催し、首都圏や近畿地方から、多様な分野の研究者23名が参加した。藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)の司会のもと、問芝志保(筑波大学大学院人文社会科学研究科哲学・思想専攻一貫制博士課程、國學院大學研究開発推進機構研究補助員)、岩田京子(立命館大学大学院先端総合学術研究科研究生)、河村忠伸(秋葉山本宮秋葉神社権禰宜國學院大學研究開発推進機構共同研究員)の三氏による発表があり、それらを受けて畔上直樹(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)、藤本頼生(國學院大學神道文化学部准教授)の両氏がコメントし、当日の参加者を加えて活発な討議が行われた。各発表の要旨は以下の通り。

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発表1「明治の墓癖家と名墓保存運動」

問芝志保(筑波大学大学院人文社会科学研究科哲学・思想専攻一貫制博士課程、國學院大學研究開発推進機構研究補助員)

 明治~昭和戦前期という時間をかけて「近代的」とも言うべき先祖祭祀の観念や実践が形成されていく過程で、名墓(偉人名士や文人墨客など、著名人の墓)をどのように扱うべきかという問題が生じた。本発表では、そのなかでも明治33年(1900)に起こった、東京における「墓癖」団体結成ブームを取り上げた。墓癖とは当時「名墓を巡る趣味」といった意味で用いられた語である。彼らがどのような目的で何を成し遂げたか、誰の墓を「名墓」とみなし文化財として保護すべきという考えが生まれていったのかを、新聞・雑誌・機関誌等の資料を用いて検討した。

 明治32年、政治・学術的エリートが名を連ねた団体として発足した「帝国古蹟取調會」の影響を受け、明治33年以降、「墓癖家掃苔會」、「東都掃墓會」といった、墓癖家・好事家を自称する東京の趣味人たちによる在野のサークルが続々結成された。彼らは情報交換をしたり、皆で探墓の遠足をしたりといった活動も行っていたが、何よりも、名墓を調査記録し、保存することを主目的とした。機関誌には、近世の儒者文人、役者、遊女や侠客といった墓を対象とし、墓碑のスケッチ、碑文、所在地、事跡を顕彰する伝記文が大量に記されている。

 墓癖団体は、そのメンバーシップから好古會などの「江戸趣味」や、歴史、地理、考古好きのネットワークのなかで生まれた団体と位置づけられる。では、彼らはなぜこれほどまでに墓の調査に情熱を燃やしたのだろうか。彼らの言説から見えてくるのは、明治30年代頃からの東京の変貌、産業化の進展、外国人観光客の増加といった激動のなかで、名墓が続々失われていく状況に対する強い危機感である。団体を結成し、まず名墓の場所を特定し、記録、周知することで、ゆくゆくは保存事業に貢献しようと考えたのである。

 こうした墓癖団体の活動は新聞・雑誌等でも「流行」として取り上げられるなど世間から注目を集め始めていたが、中心メンバーが次々と災難に遭ったことや、日露戦争を理由として、わずか数年で終幕した。直接的な名墓保存事業に着手することができなかったことは、民間団体としての活動の限界を示していよう。しかし彼らの業績はその後、一般向けの名墓観光案内書に用いられるなど名墓の周知に貢献し、また大正期以降の在地偉人名墓保存を目指す諸活動の下地を形成することにもなった。以上みてきた明治33年の「墓癖」ブームを、昭和7年(1942)創立の「東京名墓顕彰會」が提唱した「掃苔道」との比較という観点から歴史的に位置づけることが今後の課題である。それによって、「20世紀の近代国家によるナショナリズム発揚のツール」にとどまらない、名墓をめぐる観念と実践の歴史的構築過程がさらに明らかになってくると考えられる。

 

発表2「都市近郊の環境管理に関する知見と思想―昭和戦前期の京都を事例に―」

岩田京子(立命館大学大学院先端総合学術研究科研究生)

 近代の環境管理は、林学や造園学の科学的知見に支えられてきたという側面をもつ。京都では昭和戦前期の前後に、市街地を囲む郊外の山林等の管理(公園的利用や風致保存)に対する林学や造園学の影響が重要な意味をもっていたことが、先行研究でしばしば指摘されてきた。そうした研究の焦点のひとつは、自然環境と都市空間の関係を再構築しようとする同時代の取り組みである。これまで都市改造・都市計画における官吏の役割と施策の動向のほか、テクノクラートが都市の経営を実質的にリードしていく行政体制の分析が進められてもいる。しかし、官僚をはじめとする高学歴の学識者が様々なかたちで「専門知」を媒介に京都で活動を展開したことの歴史的位置づけは、あまり注目されていない。

 今回の発表では、昭和戦前期の京都の環境形成に関わる「知識人」たちの動向を検討した。具体的には造園学を専門とする京都府技師・寺崎良策の事績と、林学を専門とする京都府立京都農林学校教諭・新見波蔵の思想について考察した。その際、彼らが「煩悶の世代」と称される思想家・活動家たちと同世代の知識階級であることを念頭に置きながら、同時に、世代というくくりに回収され得ない、彼らの専門家としての立場の幅をとらえることを試みた。

 農学者の寺崎は、東京帝国大学農科大学農学科を卒業後、明治神宮内苑の造営に携わったのち、大典紀念京都植物園の創設事務を担当した。彼は農学・園芸学の新しい知見を伝える知識人たちの活動の場たる京都園芸倶楽部の発足や、京都市周辺のいくつかの施設で造園設計の主要な役割をはたした。とくに、先行研究が示すように、大正期の伏見稲荷神社神苑では植栽の面でアカマツを主体とした森づくりを目指す、一種の神社風致観──神社林を対象にした森林美学にもとづく──に則った空間づくりを計画したことがわかる。

 他方で、新見は、東京帝大農科大学林学実科を卒業後、日本各地で農林学校教員や技術官僚として活動した。その後京都で暮らした彼の論説からは、近郊の森林風致等についての提言とともに、資本主義のもと苦境に陥る農山村の人々に自己改革を訴えたり、修養主義にもとづき、「国体」のような観念にも接近する独自の思想をうちだしたりする、社会活動への志向を読み取ることができる。つまり、彼の著作からは、造園的な美学や林学における森林美学が宗教・ナショナリズムとむすびつく契機がうかがえる。

 こうした造園学・林学の実践において、寺崎と新見は、地域社会の事情をふまえながら中央由来の知見と在地の論理をつなぐ媒介者の役割をはたしたことが明らかになった。

 以上の発表をふまえ、討議では、発表者がとりあげた事例を林学や造園学に限らない多くの分野におけるテクノクラートの思想や活動と比較検討する必要性が指摘されたほか、新見の思想形成の背景と変遷について、同時代の多様な経済思想と対比しながらより深く読みこむ議論が行なわれた。

 

発表3「「国家ノ宗祀」による神社概念の変化」

河村忠伸(秋葉山本宮秋葉神社権禰宜國學院大學研究開発推進機構共同研究員)

 「国家ノ宗祀」とは「本来神社が個人的な信仰の対象として祭られるものでなく、国家が尊び祀るものであることを明らかにした」(神祇院『神社本義』、神祇院、昭和19年)語、戦前期の神社神道を象徴する語として広く神社関係者に用いられた。しかし、阪本是丸(『国家神道形成過程の研究』、岩波書店、平成6年)が考証した通り、法令としての初出である明治4年5月14日太政官布告における「国家ノ宗祀」という語には「修飾」以上の意味は見出せない。

 神社行政に携わった内務官僚の言説を比較検討すると、「国家ノ宗祀」が本来の修飾語から飛躍して布告そのものを象徴する語として扱われていることが確認できる。本布告は法制史上、神社の物的・人的設備が国家に帰属する体制を構築した法令と評価でき(河村忠伸『近現代神道の法制的研究』、弘文堂、平成29年)、全ての神社制度の起点となるものである。加えて、このような近代神社制度は国体と神社が一体であるという歴史及び思想に起因するものと考えられため、国体と神社を一体とする思想も「国家ノ宗祀」の名称で表現されるようになった。

 内務官僚の用いる「国家ノ宗祀」とは制度と思想が一体化したものである。しかし、神社制度調査会の議事録を見る限り、内務官僚の学説や制度史が周知されていなかったことは明らかである。そのため漠然と重要な用語とだけ認識され、かつ修飾語として優秀であったために、各論者の定義によって自由に「国家ノ宗祀」が語られる環境にあった。実際に美辞麗句や「神社」の枕詞として深い意味を持たないまま用いられることもあれば、論者が自己の神社観・祭神観を付加し、或は全く独自の神社観の名称として用いられるなど用法は多彩である。

 このように「国家ノ宗祀」は定義が統一されないまま、国家と神社の関係を示した重要用語として無制限に多用された経緯を有する。各用例の定義を明らかにしないまま、この語を基準に近現代神道史を分析するのは、その本質を見失い、混迷した戦前期の議論の二の舞を踏むことにもなりかねない。研究上は「国家ノ宗祀」が多義的な用語であることを前提にして、制度と思想を区別し、論者の意図する内容を正確に考察する姿勢が求められるであろう。

 葦津珍彦は「国の神祇制度上、神宮神社を法制的に『国の宗祀』として復古する希望が消えたとしても、神社の精神の本質が、『日本人の社会国家の精神的基礎である』との信条を死守する線からの退却は、決して許されない」(『神祇制度思想史につき管見―本庁講師教学委員辞任に際して―』、昭和58年)と述べた。この用例は内務官僚などの神社行政を推進した立場の定義に近く、近代神社制度は解体されても、国体と一体であるという思想信条は護持されるべきとの主張は神社本庁設立に参画した当事者の意識として、近現代神道史における重要な証言である。