国家神道と国体論に関する学際的研究―宗教とナショナリズムをめぐる「知」の再検討―

日本学術振興会平成27~29年度科学研究費助成事業(基盤研究(C))、研究代表者:藤田大誠 研究課題番号:15K02060)

第3回宗教とナショナリズム研究会「帝国日本における神社・学校・身体―神道史と教育史、体育・スポーツ史を架橋する試み―」の報告

 本科研共同研究では、平成29年3月23日(木)午前9時~午後5時半、第3回宗教とナショナリズム研究会「帝国日本における神社・学校・身体―神道史と教育史、体育・スポーツ史を架橋する試み―」を國學院大學たまプラーザキャンパス1号館AV1教室にて開催した。神道史や宗教史、宗教社会学、日本近現代史、教育史、体育・スポーツ史、日本思想史、民俗学政治学憲法、文学、法制史、建築史、都市史、仏教史、キリスト教史、比較文化など、専攻分野を異にする研究者ら32名が集まり、首都圏のみならず、北海道、北陸、東海、近畿など遠方からも来場があった。5つの発表では、それぞれ活発な質疑応答が行われた。また、研究会終了後には、キャンパス内「カフェラウンジ万葉の小径」において研究交流会を行った。

 今回の研究会における各発表の要旨は以下の通り。

 

発表1「昭和戦前期における学校教育の質的転換―宗教性に着目して―」

井上兼一(皇學館大学教育学部准教授)

 本発表では、昭和戦前期の学校教育について、とりわけ明治期から続く初等教育がどのような変化を見たのか、学校教育の目的規定に着目して検討した。

 1890(明治23)年10月7日に公布された小学校令(勅令第215号)の目的(第1条)は、わが国小学校の教育目的を初めて定めたものであり、児童の発達段階を考慮して、道徳教育、国民教育の基礎、そして生活に必須の普通の知識技能を授けることを謳い、1941(昭和16)年3月1日の国民学校令(勅令第148号)改正まで、約半世紀にわたり不変であった。国民学校の目的(第1条)は、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」であったが、そこで育成される人間像(「臣民」→「皇国臣民(または皇国民)」)の違いは何か、先行研究においても、その概念の規定は明確にされていない。

 1890年の小学校令で想定された臣民像(小学校で育成される人間像)については、宗教的要素は含まれていなかった。これを前提に考えれば、大正から昭和期にかけての宗教教育政策の変遷(政教分離の緩和)は、明治期から続く学校教育の原則が緩和する歩みであったことを意味したと思われる。とりわけ、1935年の文部次官通牒において、教育ニ関スル勅語を原則にしてはいるが、宗教的情操教育を推進することを打ち出したことは、小学校教育においては大きな変革であったであろう。

 1935(昭和10)年の文部次官通牒「宗教的情操ノ涵養ニ関スル留意事項」以後、教育内容・教材における仏教的教材の変化や神道の概念登場、教育審議会における概念の解釈(「敬神崇祖」を道徳の概念として解釈したこと)などから、昭和戦前期の学校教育改革を考える際、「宗教性」というキーワードを抜きに語ることはできないのではないか。

 教育審議会での宗教をめぐる議事経過を検討すると、宗教教育の推進派と反対派が見られたが、最終的には「敬神崇祖」と表現が変わり、国民の良習美俗また道徳に関する意味として理解された。これは神道に関係する概念であるが、これが教育内容に含まれたことは、国民学校で目指される人間像に含まれることを意味すると思われる。

 明治後期以降、学校教育においては政教分離という方針がとられてきたが、先の文部次官通牒は、その方針転換になる契機であり、学校教育には宗教的性格が付与されるようになってきた。小学校令における臣民と国民学校における皇国臣民(皇国民)は異なるものであり、その違いには宗教性の有無が関係しているものと考えられる。ただし、検証それ自体はまだまだ精緻化する必要がある。そもそも、国民学校令第1条の成立過程に関する史料が無く、それが明確ではないため傍証的検討にとどまっている。そのため、別の意味が付与されている可能性が高い。教学刷新評議会の答申・建議と教育審議会との関連性があることも予想される。当時においては、国民学校の解説本が数多く公刊されているため、そこでの解釈を検証することも今後は必要かもしれない。

f:id:shintotokokutai:20170420000349j:plain

 

発表2「帝国日本の御真影

樋浦郷子(国立歴史民俗博物館研究部准教授)

 教育史研究では、教育勅語御真影は近代教育のふたつの大きな道具立てと考えられてきたものの、教育勅語に比して御真影とその奉護体制に関わる研究が著しく少ない。「「高き」から「卑き」へ、国家機構上での「近き」から「遠き」へと段階的に推移していく」と指摘した佐藤秀夫の見取り図が論証されずに20年以上が経過したが、発表者は近年、これを精緻化することが必要と考えて御真影の研究を進め、特に植民地への下賜について調査、検討することで帝国の内実と構造に接近したいと考えてきた。単に修身・道徳の教育史を研究するのではなく、現代における「隠れたカリキュラム」の語に象徴されるような、学校の規律・文化の成立についても展望することを目指している。本発表では、主に宮内公文書館所蔵『御写真録』を典拠としつつ、現地調査の成果によって、日本にとって初めての植民地となった台湾への下賜と奉護を中心に叙述し、必要に応じて朝鮮についても言及した。

 台湾への初期の御真影下賜は、1895(明治28)年以降における軍機関に対してのものである。学校下賜の起点は1920(大正9)年、台湾において12庁制から5州2庁制となることと関わる移動(「転載」)である。台湾人対象初等学校へは1927(昭和2)年10月に開始された。全学校数に対する下賜済みの割合が3・6%、日本人対象小学校は26・7%、台湾人・日本人共学の中等・高等教育機関は80%台から100%の割合となっている。

 一方、朝鮮においては、併合前は外交ルートによる御真影下賜の事例が見られるが、植民地期における学校への御真影下賜の割合は全体で7・2%、特に朝鮮人対象校への初の下賜は1937(昭和12)年末であり、台湾と相違している。

 現地調査により、空間的に隣接している台南市新化尋常小学校(下賜済)の奉安殿と新化公学校(未下賜)の奉安庫の状況を確認し、発表の中で示した。台湾では、その気候(亜熱帯、熱帯)に適合的な「奉安」体制は考案されず、「内地」の金庫型奉安庫で「奉護」する例が多かったが、実際には道具立てとしての役割を十全に果たすことが困難な状態だったと推察される。

 台湾と朝鮮への御真影下賜は、その始まり方の相違とともに、台湾人、朝鮮人対象初等学校への非下賜傾向という類似が見られる。今後は、御真影「奉護」とその体制、明治・大正期から昭和期への展開などを検討することが課題である。

f:id:shintotokokutai:20170420003359j:plain

 

発表3「体操とナショナリズム―集団体操の国民的普及と国家政策化―」

佐々木浩雄(龍谷大学文学部准教授)

 1920年代までに学校体操は確立したが、社会への体操普及は進んでいなかった。1930年代前後の時期からは体操指導者たちが新しい体操を追求し、体操が学校という枠を超えて社会化・国民化への道を開拓していく新たな「体操の時代」が始まる。しかし、この「体操」の時代は体操界の力のみで到来したのではない。体操はいわゆる十五年戦争の始まりともなって陸軍省から発せられる国民体位低下の声や昭和12年(1937)の日中戦争開戦、昭和16年(1941)のアジア・太平洋戦争への突入など、戦時体制下における国民体育振興の掛け声を追い風に、集団体操という形で躍進していった。体操指導者たちは学校体育という枠を出て自分たちの存在意義を国民体力向上と国民精神涵養という国家的課題のなかに見出し、新しい体操の創案や普及に力を注いでいった。国家的使命を自ら背負った彼らは、体操の効果を身体的なもののみにとどめず、国民精神涵養という点に力を置いた。また、真に「国民的な」ムーブメントにするために体操そのものを欧米からの移入物ではなく、日本独自のものに刷新していこうとする「体操の日本化」の動きも見られるようになる。本発表では、体操とナショナリズムとの親和性、国民への体操普及(1928~1936年におけるラジオ体操の成功)、体操の国家政策化(1936~1940年における儀礼としての体操大会とラジオ体操の会)、体操の日本化(国家主義・国体論と体操)を論じた。

 欧米から移入した合理的運動方法としての体操が追求される一方、1930年代には集団体操を通じた民族的団結が強調され、肇国神話や武道を題材にして日本の独自性を強調する体操が創案・実施されるようになる。特に治安維持法改正時の内務省警保局長で1930年代の思想善導策や文化統制事業を推進した松本学が体操界の中心人物である大谷武一らとともに創出・普及した「建国体操」(1936年創案)は、1930年代の「体操の日本化」の象徴的な事例である。また、建国体操や朝鮮で実施された皇国臣民体操に共通しているのは、武道や神道という日本の伝統的な技法・作法を基にして作られ、いずれも建国精神や日本精神の涵養といった精神的要素を強調する「純日本式」の体操を指向したことにある。このような体操はすでに、1910年代から20年代にかけて、元海軍軍医総監であった高木兼寛が川面凡児の禊行をもとに考案した体操「国民運動」や、1920年頃より法学者(東京帝大教授)の筧克彦が発表した「皇国運動」「日本体操」(やまとばたらき)があったが、特に後者は1930年代後半以降の社会状況で脚光を浴び、農本主義と結びついて一種の「行」として位置づけられ、満蒙開拓青少年義勇軍岩手県六原青年道場などで実践された。

 ナショナリズムという概念は、民主的に国家を形成・発展させようとする「国民主義」と、国家の権威や意志を第一と考える「国家主義」という両義性を有する。1930年代の体操は、国民主義的に実践されると同時に国家主義的に推進されることとなった。体操を通じて見ても、国民主義のなかに国家主義が膨張する契機が胚胎していたことが指摘出来るが、健康・体力の問題は健康で文化的な生活を求める国民主義的課題でもあり、戦時体制を支えるための国家主義的課題でもあったことから、集団体操には国民精神涵養という機能も期待され、体操指導者たちも国家的使命を得て体操を作り、指導したのである。

f:id:shintotokokutai:20170420002204j:plain

 

発表4「植民地朝鮮における「花郎」言説と兵的動員―朝鮮半島における軍事性の正当化―」

金誠(札幌大学地域共創学群人間社会学域准教授)

 本発表は、文化的事象が動員にどのように結びついているのか?という点について、「花郎」(ファラン)に関わる言説に着目し、その分析を通して植民地朝鮮における「花郎」言説の意義について考察しようとするものである。

 1949年発行の『朝鮮歴史読本』第二篇には、「花郎制度というのは二人または数人の美少年を粉飾させ、それらの花郎を中心として多数の青年が集り、各々組をつくつて、歌舞、祭儀、祈祷、性的行事、聖地の巡礼、武術などを競争し錬習するもの」で「新羅王朝の軍隊編成と関連をもち、花郎の集団は国防軍の中枢をなした」のであり、「李朝以後においては、再びシャーマニズムと結びついて賤民的身分を構成する一つの要素をなしている」と記されており、シャーマニズム的なものから軍事性を帯びたものへと転化し、その後またシャーマニズム的なものへと回帰したことを述べている。植民地期の花郎研究の系譜を辿ると、植民地朝鮮における「花郎」言説に特に影響を与えたのは、池内宏・三品彰英花郎研究であり、とりわけ白神寿吉の言説は池内の研究によるところが大きい。

 なお、朝鮮人志願兵制度の導入とその懸念について、朝参密代七一三号「朝鮮人志願兵問題二関スル件(回答)」(1937年11月)に拠れば、①志願兵制度の朝鮮統治上に及ぼす具体的効果の程度、②志願兵制度の施行と共に総督府に要求すべき具体的条件、③志願兵制度の利害対策および将来における実績の見込みが検討され、「除隊帰郷ノ後鮮人青壮年層ノ中堅的存在トシテ郷党閭里ニ及ホス有形無形ノ効果」が期待されていた。

 学徒志願兵の情況は、「朝鮮出身兵の取扱指導の要注意事項」(陸密第二五五号別冊第九号「軍紀風紀上等要注意事例集」(1943年1月28日)1944年9月陸軍省印刷)において朝鮮人学徒兵らの軍隊からの逃亡が精神的傾向に起因していると分析され、徴兵制の実施に伴い、朝鮮人兵士についての対策、特に教育の重要性が確認されている。

 「花郎」言説と兵的動員への結びつきは、李朝(朝鮮王朝)期の武に対する否定的態度や軍事性の欠落についての指摘を前提として、「新羅人の有した此の挙国一致、尽忠報国の大精神は、我が二千六百年の国史を通じて流れる日本精神、大和魂と全く相通ずる」(「内鮮一体精神 新羅武士道」『文教の朝鮮』1940年2月号)ことが見出されたことにある。朝鮮半島における兵的動員において重視された学校と陸軍兵志願者訓練所と関わる形の「花郎」言説に着目すると、訓練所においては、花郎の精神を花郎道として武士道と同一視したうえでその精神性と軍事性との結びつきについての講話が常になされていたのである。

 朝鮮人を兵士として動員するときに「花郎」にかかわる言説が朝鮮人青年と軍事性を結びつけていた。この「花郎」はまた朝鮮人自身が植民地支配を受けることになった李朝(朝鮮王朝)を否定し、民族の強さを求める憧れの思想でもあり、そこに支配者側の論理が加わったとき、本質主義的な朝鮮人の「文弱」は廃棄され、朝鮮人の軍事性は日本の武士道と結びつけられた「花郎道」によって正当化されることになった。朝鮮人志願兵の実際を確認すると、武士道と結びつけられた「花郎道」の必要性は支配者側が作り出せねばならなかった論理でもあり、そうしなければ若き朝鮮人青年らを徴兵して兵士として動員することに躊躇せざるをえない状況でもあったことが理解されるのである。

f:id:shintotokokutai:20170420001112j:plain

 

発表5「昭和戦前期の国体論と神社・学校・身体」

藤田大誠(國學院大學人間開発学部准教授) 

 本発表は、「昭和戦前期の国体論」を補助線として、近代神道史と日本近代教育史、日本近代体育・スポーツ史を架橋する試みである。そもそも、表題とした「昭和戦前期の国体論と神社・学校・身体」といふ問題設定は、果たして生産的な意義を有するものになり得るのだらうか?もちろん「神社」「学校」「身体」は、「神道」「教育」「体育・スポーツ」と直接に関はる〈場〉や〈担ひ手〉であるが、より詳細にいへば、〈場〉としては、「神社境内」「学校空間」「運動場・競技場・武道場」、〈担ひ手〉としては、「神職神道人」「教職員・教育者」「体操指導者・競技者・武道家」などが挙げられ、どの点に注目するかによつて論じ方も異なつてこよう。また、この三要素の接点をどこに見出すか、或いは相互影響関係を如何に捉へるか、日本「本土」と「植民地」のどちらを対象とし、或いは「帝国日本」全体をフィールドにするのか、によつても変はつてくるだらう。それ故、ここでは今回の発表者たち(井上兼一・樋浦郷子・佐々木浩雄・金誠・藤田大誠)による先行業績を手掛かりとしてこの課題にアプローチした上でささやかな問題提起を行ひ、幅広い学際的な議論を誘発してみたいと考へた。

 ①井上兼一による昭和戦前期の国民学校と「宗教的情操」に関する研究、②樋浦郷子による「植民地朝鮮」における児童の神社参拝と「御真影」に関する研究、③佐々木浩雄による戦時期における集団体操と「身体の国民化」に関する研究、④金誠による「植民地朝鮮」における身体運動(「朝鮮神宮競技大会」「皇国臣民体操」)に関する研究、⑤藤田大誠の「近代国学」「神社神道」と教育との関係、「明治神宮体育大会」に関する研究を踏まへると、五者は、昭和戦前期(一九三〇~四〇年代)を対象とする(或いは含む)歴史的研究といふ点では共通するとはいへ、その研究対象がそれぞれ多種多様であるだけでなく、学問分野(神道史、教育史、体育・スポーツ史)やアプローチ法、対象地域(日本「本土」、「植民地朝鮮」)、学問を志す前提や現実の社会問題と接続する志向性(誤解を孕む表現かも知れないが「思想信条」性と言つても良い)としての各自の「バイアス」の掛かり方など、当然その殆どは相違する部分ばかりである。しかし、いづれも「神社」(神道)・「学校」(教育)・「身体」(体育)の領域に跨る課題を対象にしてゐるとともに、昭和戦前期における「国体論」に接続された「宗教性」「精神性」の浮上を具に捉へ、その一面的ではない構造解明を目指してゐる点で共通する面を持つといへよう。

 その上で本研究会全体を貫く論点として、(1)大正・昭和戦前期に浮上する「国体論」と「宗教性」「神秘」「精神性」「敬神崇祖」との関係、(2)近代日本の「国民」化・「国民統合」化の手段としての「身体の規律・訓練」と「国体論」との関係、(3)「総力戦体制」下の「錬成」は、「神社」(神道)・「学校」(教育)・「身体」(体育)を結び付けたか?といふことが挙げられる。結局、「神道」「教育」「体育」は〈主体〉たり得たのだらうか?或いは「動員」されるべき〈資源〉や〈手段〉だつたのか?「総力戦体制」下において「動員」の媒介とされた諸言説や身体規律・訓練の実質的効果はどうだつたのか?といふ点が今後の学際的諸課題になると思はれる。

f:id:shintotokokutai:20170420002325j:plain