国家神道と国体論に関する学際的研究―宗教とナショナリズムをめぐる「知」の再検討―

(日本学術振興会平成27~29年度科学研究費助成事業(基盤研究(C))、研究代表者:藤田大誠 研究課題/領域番号:15K02060)

第10回国家神道・国体論研究会「「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」再考」の報告

 本科研共同研究では、平成29年9月30日(土)14:00~17:30、第10回国家神道・国体論研究会「「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」再考」を國學院大學たまプラーザキャンパス1号館306教室において開催し、多様な分野の研究者ら23名が参加した。

 今回の研究会は、日本宗教学会第76回学術大会パネル発表「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」(パネル代表者:小島伸之、平成29年9月17日(日)13:15~15:15、於東京大学本郷キャンパス)の内容について再考することを目的として開催された。同パネル発表は、原則として日本宗教学会会員のみが参加可能であったため、今回、このパネルの内容を同学会外に開き、新たにコメンテーター2名を設定して歴史的観点からのコメントを受け、改めてじっくりと議論を行った。

 司会の藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)が趣旨説明した後、寺田喜朗(大正大学文学部教授)、藤田大誠、小島伸之(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)が発表。さらに、この日は参加出来ず紙上参加となった高橋典史(東洋大学社会学部准教授)と平山昇(九州産業大学商学部准教授)の発表について藤田大誠が紹介し、小島伸之が日本宗教学会におけるパネル発表の様子も含めパネルのまとめを行った。

 一旦休憩の後、畔上直樹(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)と昆野伸幸(神戸大学大学院国際文化学研究科准教授)がそれぞれコメントした上で、登壇者間でやり取りするとともに、フロアにも開いて討議を行った。

 議論を進める中で、今回取り上げた神社界・宗教界や宗教運動、社会運動、観光、移民などをめぐる諸領域の具体的事例からは、昭和10年における「天皇機関説事件」と「国体明徴運動」が、戦時下における社会と宗教に関する言説に対して、目に見える形で大きな変動を来たすような直接的な指標となったと見做すことは難しいことが明らかとなった。視野を前後に広げて捉えるならば、大正期以来、徐々に地殻変動的に思想的・社会的変化は生じており、より強い直接的なインパクトとしては、昭和6年の満洲事変や同12年の支那事変(日華事変、日中戦争)などが齎した影響の方が大きい可能性が考えられる。しかしながら、少なくとも同10年以来、あらゆる立場の人々にとって、次第に「国体明徴」という標語やその意味内容を前提として様々な神道的・宗教的言説がなされなければならないという切迫感がより一層充満する社会的状況へと至ることは疑いなく、ここから新たな段階に入って行くという意味では、昭和10年の「国体明徴運動」を以て「線が引かれた」面もあるのではないか、という見方も一定程度共有されたように思われる。

 各発表の要旨は以下の通り。

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パネル「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」

 パネル代表者 小島伸之(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)

 本パネルは、近代日本の宗教とナショナリズムをめぐる「知」の諸相の具体的な一側面として、国体明徴運動下、昭和10年(1935)前後における日本社会と宗教をめぐる諸事例について具体的に分析することを目的としたものである。

 昭和10年(1935)は、すでに大正期から問題とされてきた「天皇機関説」が、野党・軍部・右翼団体を中心とした「国体明徴運動」の展開によって、その代表的論者であった憲法学者美濃部達吉への直接的排撃となり、最終的な政治的局面としては一〇月の岡田啓介内閣の第二次国体明徴声明により、「天皇機関説」が「国体に戻る」ものとして否定され、「芟除」されることになった年である。

 「天皇機関説事件」や「国体明徴声明」の影響については、これまで法制史、政治史、思想史、教育史的観点から豊富な研究の蓄積がなされてきている。一方、宗教史や社会史的観点から、昭和10年前後において、社会や宗教界にどのような変化があったのか・なかったのかについての具体的な事例の検討は、非常時や戦時下を対象とした研究に比して、十分な研究の蓄積がなされていない状況にある。とりわけ、それまでも行われてきた神道的或いは宗教的な「国体論」やそれに関連する諸運動、さらには一般社会の受け止め方、そして天皇観などが、この年を契機としてどのように変化したのか、或いはしなかったのか、という点は必ずしも詳しくは明らかにされていない。

 そこで本パネルは、こうした昭和10年前後における政治的・社会的状況の下、宗教活動、信仰生活を含むさまざまな社会生活の局面において、国体明徴運動的言説がどのような影響を与え/また与えず、「国体」に関する言説・運動はどのように展開されていたのか。またそれらの諸事例にみられる共通性と異質性はどのようなものであるのかという問題意識に基づき、「天皇機関説事件」が起こった昭和10年(1935)という年をメルクマールとしてその前後の時期に着目するとともに、宗教運動、社会運動、観光、移民などをめぐる諸領域の中から具体的な事例を取り上げることにより、「国体明徴」が大きな社会的課題となっていた昭和戦前期における日本社会と宗教の状況について、比較の視点から実証的に明らかにすることを試みた。

 

発表1「谷口雅春における天皇と日本―昭和一〇年前後を中心に―」

 寺田 喜朗(大正大学文学部教授)

 本発表は、昭和10年前後の谷口雅春(明治26~昭和60)の天皇と日本をめぐる言説から国体明徴運動が新宗教へ与えた影響を考えることを目的とする。

 大正6~10年まで大本の活動家だった谷口は、『皇道霊学講話』(大正9)において「全世界の人類が幸福な人間らしい生活を送るためには…日本皇室が世界を統一しなければならない」と述べていた。立て替え立て直しに当初は強い魅力を感じていたが、大正11年5月5日が迫り、狂奔状態に陥る教団へ違和感・嫌悪感を抱き、綾部を去った。その後の谷口は、(物質的な)世界の改造という発想自体を否定する唯心論的な思想に至り、生長の家を立教する(昭和五)。『生長の家』創刊号では、万教帰一の立場から「心の法則を研究し、その法則を実際生活に応用して、人生の幸福を支配するために実際運動をおこなう」ことが宣言される。昭和10年、『主婦之友』に紹介記事が載り、全国主要紙に大広告を打つことによって知名度を確立させる。昭和9年4月時点で15ヶ所だった支部は、翌年9月には552ヶ所に急増している(『生命の実相』は80万部、定期購読者は3万人)。昭和10年は生長の家の大発展期であった(人々を魅了したのは「奇跡の神癒」とよばれる現世利益。皇道経済の実現を掲げる昭和神聖会・大本は同年12月に弾圧されている)。

 昭和11年、「われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点を生きている」「どんな時にも日本国が立ち直ることができた重心は天皇がましましたから」と述べられ、指導者講習会では、「天之御中主神」は「宇宙の真中の神」であり、「天皇」は「天之御中主神の全徳の御表現(おんあらわれ)」であり、「日本国体の尊さ」は「天皇陛下に中心帰一する働が単に理論ではなく具体的に現れている点」にあると語られる。昭和12年には、「非常時に労働争議を停止せしめ、反戦思想を抑圧」するのに「最も効果がある」とアピールし、昭和14年の講演では、「本当の日本主義は八紘一宇主義だから一切を包容する精神」であるべきであり、「八紘が一宇となったら」天皇は「世界の最勝最尊」の存在にならざるを得ないと述べられる。翌年には「すべての森羅万象」は「天皇の大御いのちの顕現」であり、「生命が尊きは」「天皇の大御いのちの流れであり・岐れであるが故に尊き」と主張する「天皇絶対論」が発表される。

 つまり谷口は、昭和5年に生長の家を立教するが、当初は天皇や日本に特殊な価値を認める言説を殆ど発信していなかった。またその教理は、大本や北一輝のような現実的な体制批判・社会改造の発想がなく、「心の法則」を知り「日時計主義」「礼拝主義」で「心をみがき」「朗らかに生きる」ことによる現状打破・現世利益を約束するものだった。天皇や日本に関する言説の比重が増すのは昭和10年前後だが、国体明徴運動が展開された同年2月~10月に天皇機関説を批判したり(戦後、谷口は、開戦当時「天皇は機関であって自由意志が行われなかった」と述べている)、民本主義自由主義個人主義・デモクラシーを批判する動きは見せていない(一貫して批判されるのは唯物論)。またこの時期、国家から天皇・国体にまつわる言説への干渉はなく、ジャーナリスト・右翼団体在郷軍人からその異端性を批判されることもなかった。日中戦争(昭和12)・国家総動員法(昭和13)によって総力戦体制へ社会・経済が再編されるプロセスにおいて、ファナティックな天(皇)賦生命論及びグローバルな反本地垂迹説が説かれるに至っている。畢竟、国体明徴運動が谷口雅春の言説に直接的な影響を及ぼしたことは特定できない(他の新宗教も同様)。ただし、天皇と日本に関する言及頻度を高めたという意味において間接的な影響があったことは確実といえよう。

 

発表2「「国体明徴」と神社界・宗教界」

 藤田 大誠(國學院大學人間開発学部教授)

 昭和10年(1935)の「天皇機関説事件」や「国体明徴運動」については、専ら政治史的・法学史的・思想史的・教育史的観点から論じられてきたが、神道史や宗教史の観点から「国体明徴運動」を大きな指標として捉えた研究はさほど多くない。

 阪本是丸は、同6年勃発の満洲事変から徐々に「神道的用語」による「国体論」の裾野が拡大し、同10年の「国体明徴運動」以降、そうした傾向、雰囲気が日本社会全体に充満していくとともに、その内容も「国内」限定から「普遍」へと向かうベクトルが急速に高まったが、神社界の要請は内務省において容易に実現出来なかった一方、それまで後手に回っていた文部省は「失地回復」のため「教学刷新」を打ち出し、大きな存在感を示したと指摘している(「昭和戦前期の「神道と社会」に関する素描」)。実際、昭和12年1月に内務省が内閣に提出した「国体明徴ニ関スル施設ノ件」(国立公文書館所蔵「国体明徴問題」)は、神宮関係施設調査と神社行政振張、出版物検閲に関する3事項のみしか挙げられておらず、11の実績と8の予定を記した文部省と比較すると段違いに内容が乏しい。

 昭和15年に玉澤光三郎検事が執筆した『所謂「天皇機関説」を契機とする国体明徴運動』(司法省刑事局)は、国体明徴問題以来、「一般的に喚起された国体観念の自覚」に促される形で、宗教界における「自粛自戒、教義刷新等の傾向」が特に顕著となり、「宗教警察の強化」も図られたとするが、他方では「支那事変に依る国家意識の昂揚と相俟つて一層深刻化するの勢」をも指摘しており、後付けの評価も含まれている可能性がある。

 皇道大本を中心とする昭和神聖会は同十年二月末以降、「天皇機関説撲滅運動」を活発に展開し、統管出口王仁三郎は、日本は立憲君主国ではなく、「万世一系の 天皇が現人神として永遠に統治し給ふ世界無比の神聖皇道国」で「地上唯一の天立君主立憲国」と述べた(『神聖』第7号)。しかし皇道大本は、同年12月に一斉検挙された(『特高外事月報』昭和10年12月分)。内務省警保局は政治団体の昭和神聖会を注視する一方、「国体」の異端では済まぬ皇位簒奪・革命計画を立証するための内偵調査をしていた。

 里見岸雄(田中智学三男)は、「国体科学的見地」から「天皇機関説」と「天皇主体説」を止揚した「天皇統治権実論」を説いた(『国体憲法学』二松堂書店)。また、今泉定助(皇道発揚会会長)は「全世界を統一し、全人類を救済することは、天津日嗣の天皇の天業であらせらる。これが為めには先づ国体を明徴にして、人生社会に人類の理想を実現せねばならぬ」と述べた(『皇道論叢』桜門出版部)。神社界の「国体明徴」は当時の「天皇機関説」批判の風潮と何ら異ならないが、室松岩雄(國學院第4期生)は、「東西の文華文明を能く調和し更に世界の文明を醇化して人類の平和と完美を図ることは当しく我が国民の理想であり、日本帝国の天職」と記し、同12年の文部省『国体の本義』の主張を先取りしている(『国体の明徴と政治及教育』皇学書院・会通社)。そして、ヨハネス・クラウス(上智大学教授)の『教育原理としての皇道』(思想・科学研究所)は、「カトリック教会に於て、ペトロの磐たる教皇が統一的活力的中心をなし、又崩壊に対する堅固なる堡塁をなす如く、日本に於ては 天皇が「生命的中心」をなし、又国民的生活と力との永久に尽きざる源泉をなし給ふ」と日本人と見紛う国体論を書き、西本願寺の利井興隆は、「万邦無比なる国体を明徴にし、最も其の精神を宣揚なされたのが聖徳太子であらせられた。これを指導精神として発達したのが日本精神」と典型的な仏教的国体論を述べた(『国体明徴と仏教』一味堂出版部)。「国体明徴運動」は、プロテスタントの「日本的キリスト教」も含め、神社界・宗教界問わず「国体明徴」の弁明を強いられる時勢を齎したとはいえよう。

 

発表3「昭和前期の宗教者における日系移民と国家帰属」

 高橋 典史(東洋大学社会学部准教授)

 昭和10年代前後の日本の仏教界における「国際化」に向けた動きの活発化の流れにあって、米国に生まれ育ち、日米の二重国籍を有する者も多かった日系移民の第二世代(以下、「二世」とする)を、日本の仏教関係者たちはどのように位置づけて対応していこうとしていたのだろうか。本発表では、二世たちに向けた教化・教育活動のなかでも、とくに日本留学をめぐる仏教関係者たちの言説に着目し、国際仏教協会・米布研究会・日本米布協会などの諸団体の資料を中心に当時の動向を明らかにすることを試みた。

 そもそも、昭和戦前期の仏教関係者たちは、「日本精神」と「仏教精神」を兼ね備えた二世たちが、関係悪化する日米の「架け橋」として活躍することを期待していた。そこで注目されたのが、二世の日本留学への支援だった。日本社会に実際に接し、現地で日本語、日本文化を学ぶことを通じて国際的に活躍しうる二世たちを育成することを企図したのである。とくにハワイ・北米大陸の日系移民社会において大きな教勢を誇っていた浄土真宗本願寺派などは、こうした二世の日本留学関連の諸事業に精力的に携わり、その結果、多くの二世留学生たちが来日することとなった。

 だが、こうした日本留学の支援事業は、必ずしも当初の目論見通りの結果を生むものではなかった。というのも、米国で生まれ育ちつつも二重国籍を保持する者が多かった二世たちは、排日論が展開していた米国社会においては国家への忠誠に関して強い疑いの目で見られており、非常に複雑で困難な立場にあった。また、民族的なルーツを共有しているとはいえ、祖国日本の内地の「日本人」たちとは、大きく異なる米国的な価値観やライフスタイルを持つ二世たちは、日本での生活においては特異な存在として主流社会からは周縁化されることも少なくなかった。そのうえ、日中戦争の勃発後、日本国内においてアジア地域での権益の拡大や植民に関心が高まるなかで、仏教界もそうした国策への接近を強めていったことは、二世たちと日本の仏教関係者たちとの隔たりを広げることにもつながっていったのである。

 実際のところ、日本の仏教界による二世の日本留学において大きな役割を果たした日本米布協会の事業でも、「日本精神」と「仏教精神」を兼備する国際的な人材育成というよりも、「日本精神」のもとにある言語と文化の教育がその多くを占めていた。また、「日本精神」と「仏教精神」を身につけた「米国市民」としての二世の育成という同協会の理想とは裏腹に、現実には二重国籍を有する多くの二世たちの日本での兵役義務の問題等への対応にも追われていく。さらに、日本支配下満洲や朝鮮への見学旅行の開催などは、アジアにおける日本の覇権とその地位の正当性を二世に理解してもらうことを意図した側面もあり、当時の同協会の国策への接近を示す事例であるといえよう。

 以上のように、本発表では、昭和10年前後という時代状況下において、日本の仏教界が、その関心を日系移民の移住先も含む欧米からアジア(「大東亜」)へシフトさせていくなかで、当初においては宗教的な理念が込められていた二世の日本留学関連事業が、国策に従属するものへと変質し、当の二世留学生たちとのあいだの齟齬も拡大していった様相を明らかにした。

 

発表4「昭和戦前・戦時期における「聖地」ツーリズム」(パネル当日は、「戦間期における「聖地」ツーリズム―伊勢神宮を中心に―」と題して発表)

 平山 昇(九州産業大学商学部准教授)

 本報告では、大正期以降の日本社会において天皇ナショナリズムの高揚のなかで「聖地」として重視されるようになった場所(皇室ゆかりの神社+天皇陵)へのツーリズムについて、主として伊勢神宮への参拝ツーリズムに注目して検討した。神宮参拝者数は第一次大戦中から急増していくが、前半ではこの増加の背景にとして考えられるナショナリズム(政治思想)の文脈とツーリズム(社会経済)の文脈の双方を検討した(前者については、大逆事件天皇の代替りも含めた明治末期以来の動向までさかのぼって検討した)。後半では、「聖地」ツーリズム活性化のなかで台頭する新たな参拝層について検討したうえで、本パネルのテーマとなっている一九三五(昭和一〇)年に生じた国体明徴問題の時期の動向についても検討をくわえた。これをふまえ、以下の二点の考察をおこなってまとめとした。

 第一点は、交通・旅行業界/メディア(新聞・雑誌)/教育界/神社界/実業界/地域社会といった一枚岩ではない様々な主体が伊勢神宮ツーリズムに絡み合うようになったということである。これは、これまで「国家神道」の主たる推進主体として見なされてきた神社神道界と内務官僚といった人々の役割は、かなり限定的であったということでもある。そして、交通・旅行業界や実業界は、言説・思想としてはこれといってオリジナリティのあるものを生み出したわけではないのだが、既存の言説資源を再利用しながら(しばしば巧みなマーケティングや豊富な財力によって)「言説」と「体験」の共有層を広めていく役割を果たした。大衆社会化状況のなかでのナショナリズムのあり方について考えるとき、言説の中身だけではなく、それを社会に拡散させる「声量」「熱量」「反復量」といったものの影響力も視野に入れる必要があるのではないだろうか。

 第二点として、「体験すればわかる(体験しなければわからない)」という紋切型を特徴とする体験至上主義が大逆事件をきっかけとして伊勢参宮をめぐる言説のなかで広まっていくが、この体験至上主義と結びついた「聖地」ツーリズムの基本型は昭和初期までにすでに出来上がっており、満州事変、国体明徴運動、日中戦争開始といったナショナリズム高揚の節目ごとに熱を帯びてはいくものの、これらの節目によって何らかの重要な質的変化が生じることはなかった。ただし、「聖地」を訪れる人々の集合体が増幅していくなかで、これが「国体」の尊厳、あるいは、国民の「国体」観念に「宗教」性が内在していることを表すものとして、直感的に解釈されていった。その意味において、「聖地」ツーリズムは「国体」論にも一定の影響を与える側面があったと言えよう。

 

発表5「昭和10年前後の消防と国体」

 小島 伸之(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)

 本報告は、昭和10(1935)年前後の消防界と「国体」の関係を事例に、具体的には、①「消防招魂祭」及び②消防に深くかかわった内務官僚(主として松井茂)の消防に関する言説における「国体」的要素の変化に着目し、国体明徴運動下の昭和10年前後における社会と国体を考察することを試みたものである。

 「我国開闢以来消防歴史上最初の企て」(松井茂)である「消防招魂祭」については、従来の慰霊研究、消防史研究、警察史研究などではほとんど触れられてこなかった。

 同招魂祭は、靖国神社臨時祭と同日の昭和10年10月23日、内務省と大日本消防協会の主催により東京日比谷公園で挙行された。明治初年以来の殉職消防組員、殉職消防官吏、物故消防功労者計七九七註を祭神に、消防活動に関係して殉職した者を、《国家レベル》で慰霊・顕彰する初の試みであり、当日はラジオにより全国中継がなされている。当日の主催関係者や参列した遺族代表の声からは、戦死者と「同様」に消防殉職者が扱われたことに対する意義の表明を多数拾うことができる。

 この「消防招魂祭」開催の背景には、①明治以来の特に地方における消防の近代化の遅れや国家レベルのテコ入れの薄さに対する危機意識、②昭和8(1933)年のゴーストップ事件で顕在化した軍と警察の対立、③②も前提とした来るべき防空法の内容をめぐる防護団―陸軍と消防組―内務省の対抗関係などを挙げることが出来る。

 なお、同招魂祭の開催決定に際し、一時的な慰霊・顕彰である招魂祭開催に止まらず、恒久的な消防殉職者の慰霊顕彰施設を求める声もあがり、後の昭和18(1943)年に、「消防神社」が大日本警防協会構内に建設されている。

 続いて、内務官僚の消防に関する言説における「国体」的要素とその変遷についてである。大正15(1926)年の松井茂『国民消防』においては、日本武尊の東夷征伐における「逆火」など神話的内容が簡単に紹介されており、また、「消防精神」を「国体の基礎的観念である智仁勇」に関連付ける言説も見ることが出来る。一方、消防には国家的精神が必要とされながらも、その内容は、市町村レベルではなく国家レベルで消防を考えるべき、という主張であり、そこでの国家的精神は「国体」と関係付けられていなかった。昭和10(1935)年の松井の論説(「消防の時事問題と消防人の覚悟」)には、「元来我が国体に於ては、市町村なる自治体すらも 陛下ましましての上の存在である」などの言が見られ、昭和12(1937)年の論説(「国民精神と消防精神」)には「例へば 天皇機関説の如きは(略)我が国体の解釈上断じて容認され得べきではない」という「国体明徴運動」の影響を直接的に示す表現も現れている。このように、消防に関する内務官僚言説には、昭和10年前後で、「国体」的要素の増加を見ることが出来、その点においての変化が存在する一方、その主旨において「国家レベルでの消防へのテコ入れ」という松井年来の主張の中心は基本的に一貫しているとみることもできる。

 つまりこうした変化は、「国体」の社会的強調に伴って消防に関する言説・思想が本質的に変化ではなく、消防に関する言説を正当化する資源として「国体」的要素が導入されていったことによるものとみることが出来るのではないだろうか。

 今後さらに検証・考察を続けていきたい。

 

第10回国家神道・国体論研究会「「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」再考」の御案内

第10回国家神道・国体論研究会

「「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」再考」

【日時】平成29年9月30日(土)14:00~17:30

【場所】國學院大學たまプラーザキャンパス1号館306教室

【主催】日本学術振興会平成29年度科学研究費助成事業(基盤研究(C))「国家神道と国体論に関する学際的研究―宗教とナショナリズムをめぐる「知」の再検討―」(研究代表者:藤田大誠 研究課題番号:15K02060)

【開催趣旨】
 本研究会は、日本宗教学会第76回学術大会パネル発表「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」(パネル代表者:小島伸之、平成29年9月17日(日)13:15~15:15、於東京大学本郷キャンパス)の内容について再考することを目的としている。同パネル発表は、原則として日本宗教学会会員のみが参加可能であるため、本科研共同研究としては、このパネルの内容を同学会外に開き、新たにコメンテーター2名を設定して歴史的観点からのコメントを受け、改めてじっくりと議論を行うことを考えている。

【スケジュール】

14:00~14:05(5分)
趣旨説明
藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)司会

14:05~14:20(15分)
発表1「谷口雅春における天皇と日本―昭和10年前後の言説―」
 寺田喜朗(大正大学文学部教授)

14:20~14:35(15分)
発表2「「国体明徴」と神社界・宗教界」
藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)

14:35~14:50(15分)
発表3「昭和10年前後の消防と国体」
小島伸之(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)

14:50~15:05(15分)
紙上参加の紹介
藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)
※紙上(レジュメ)参加1「昭和前期の宗教者における日系移民と国家帰属」
高橋典史(東洋大学社会学部准教授)
※紙上(レジュメ)参加2「昭和戦前・戦時期における「聖地」ツーリズム」
平山昇(九州産業大学商学部准教授)

15:05~15:20(15分)
パネルのまとめ
小島伸之(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)

〔10分〕

15:30~16:00(30分)
コメント
 畔上直樹(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)
 昆野伸幸(神戸大学大学院国際文化学研究科准教授)

16:00~17:30(90分)
討議

【申し込み方法】
 研究会の参加は無料ですが、準備の関係上、参加には事前申し込みが必要です。
 参加希望の方は、たいへんお手数ですが下記URLを御確認の上、お申し込み下さい。

第10回国家神道・国体論研究会 「「国体明徴運動下の社会と宗教―昭和10年前後を中心に―」再考」 – 國學院大學

第9回国家神道・国体論研究会「近現代日本における国史学・神道論・国体論の交錯」の報告

 本科研共同研究では、平成29年7月29日(土)14:00~18:00、第9回国家神道・国体論研究会「近現代日本における国史学・神道論・国体論の交錯」を國學院大學たまプラーザキャンパス1号館306教室において開催し、首都圏や近畿・東海・中国地方から、多様な分野の研究者やジャーナリストら28名が参加した。藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)の司会のもと、廣木尚(早稲田大学大学史資料センター助教)、西田彰一(国際日本文化研究センター技術補佐員、立命館大学客員協力研究員)、長谷川亮一(東邦大学薬学部非常勤講師、千葉大学大学院人文公共学府特別研究員)の三氏による発表があり、それらを受けて昆野伸幸氏(神戸大学大学院国際文化学研究科准教授)がコメントし、当日の参加者を加えて活発な討議が行われた。各発表の要旨は以下の通り。

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発表1「アカデミズム史学の分節化と史学史叙述」

廣木尚(早稲田大学大学史資料センター助教

 明治期の史学史は思想的背景を異にする複数の歴史認識ヘゲモニー争いと、久米邦武筆禍事件を直接的な契機とする「実証主義史学」の「消極化」という展開過程を主調に把握されてきた。しかし、この見方では、ヘゲモニー争いの場である歴史学の枠組みがアプリオリに設定されており、その枠組み自体の形成過程を対象化できないという難点がある。この点に鑑み、本報告では隣接諸学の形成過程に関する近年の研究に学びつつ、1890年代にそれら諸学との相互作用を通じて形成されたアカデミズム史学の性格について二つの点から検討を加えた。

 一つは史学史叙述の起源についてである。日本初の歴史学の専門誌である『史学会雑誌』は、早くも創刊号から下山寛一郎「史学史」、三上参次「西史叢談」という二つの史学史叙述を掲載した。いずれも中途で途絶したものの、前者はヘロドトスを、後者はギボンやヒュームを主に取り上げて、近代歴史学の枠組みを前提とした史学発達史としての史学史を構想していた。これらの論稿の存在は、日本のアカデミズム史学がヨーロッパ歴史学の系譜の上に自らを位置付けていたことをものがたるとともに、隣接諸学や旧来の学知と分節化するまさにその時に、分節化自体を不可視化する史学史認識を構築していたことを示唆している。

 本報告で検討を加えたもう一つの点は、分節化を経て成立した諸学と旧来の学知との対抗関係についてである。國學院に対する国庫補助の是非をめぐって交わされた『帝国文学』と『新国学』との論争から、アカデミズム史学を含む新旧諸学の間に、当時、互いの境界をめぐる鋭い対立関係が存在していたことが読み取れる。

 『帝国文学』は國學院で営まれている研究・教育がかつての「国学」のような総合性を備えていないとし、帝大こそが「国学」が包含していた諸分野を兼修する機関であると主張した。この批判に対し、『新国学』は、「国学」を「国体」を闡明する学問と位置づけ、帝大の学問に対する価値的な優位性を強調した。

 両者の応酬には、帝大に基盤を置く新しい学問にとって、「国学」が有した総合性は否定されるべきものであったこと、そして、この段階においては「国学」の存在意義を主張する側にとっても、その総合性を正当化の根拠とすることは困難となっていたことが示唆されている。

 以上の事実は、成立期のアカデミズム史学において、隣接領域との境界はいまだ流動的であり、それゆえ、史学史叙述の面では、むしろ流動性を不可視化する叙述が要請されたことを示している。現在の近代史学史像もそのような史学史認識の延長線上にあるとすれば、アカデミズム史学の歴史的性格を把握するためには、その認識自体を相対化し、「消極化」という評価では捉えきれない実践を対象化する必要があるといえる。

 

発表2「国体論者としての筧克彦―その思想と活動―」

西田彰一(国際日本文化研究センター技術補佐員、立命館大学客員協力研究員)

 筧克彦(1872年~1961年)は東京帝国大学法学部教授であり、戦前独自の神道体系である「古神道」「神ながらの道」を提唱した人物である。従来筧は「神がかり」と揶揄され、正面から取り扱われてこなかった。しかし、筧は国体論者として、戦前特に1900年代から1930年代半ばに影響力を持った重要人物である。例えば、貞明皇后満州移民の推進者である加藤完治、当時の著名な政治家・官僚である守屋栄夫や二荒芳徳は筧の影響を強く受けている。そこで、本報告では筧の思想形成や活動の実態、教え子との交流の解明を試みた。

 本報告は三部六章構成である。まず第一部では、筧の思想形成を取り上げた。第一章では筧が1900年代の社会変動に対応するために、健全な秩序の形成とそれを担う人物を養成する方法として、宗教を重視したことを明らかにした。続く第二章では、1910年代以降の思想形成に注目し、君民一体の国体の形成をより強固なものとするために、信仰と実践を兼ね備えた宗教として、「古神道」「神ながらの道」の重要性を説くようになった過程を論じた。

 次の第二部(第三章)では、筧の国家構想とその実現にむけた活動を明らかにした。進講を通して貞明皇后の後ろ盾を得た筧は、自説を広めるために、著作や雑誌の発行、講演に留まらず、政府の委員会にも参加し、活発に発言した。神社制度調査会(内務省)では神社を国の宗教にすべきだと唱え、さらに教学刷新評議会(文部省)では、世俗を司る政府とは別に、祭祀教学を担う神祇府を設立しなければならないという宗教的国体論を繰り広げた。

 さらに第三部では、教え子たちとの活動も視野に入れて論じた。まず第四章では、筧が考案した〈やまとばたらき〉(皇国運動/日本体操)という体操の実践過程を検討した。この体操は、体操を通して君民一体の神話世界の体験と精神的教化を図るものであった。そして、貞明皇后の主導により宮中で実践され、さらに二荒が理事長を務めていた少年団や、加藤の農業移民訓練所で採用され、終戦まで続けられたことを明らかにした。ついで第五章では、筧がその教え子たちと取り組んだ、誓の御柱という記念碑の建設運動の実態に言及した。そして、筧たちがこの記念碑を作ったのは、民衆の政治参加を肯定しつつも五箇条の誓文の精神に基づく君民一体の国体の精神を人々に身につけさせるためであったことを解明した。最後の第六章では、筧とその教え子たちの植民地での活動を考察し、筧たちが遅れた植民地を宗教的に教化するという意図の下に活動していたことを明らかにした。だが、筧の学説は植民地の実態に即しておらず、現地では受け入れられなかったことも判明した。

 筧の国体論とは、国体論に宗教を導入することで、国民の政治参加を認めつつ、内面への宗教的な教化と身体的修養の重視によって国民の自発の活性化と制御を図るものであったというのが本報告の結論である。筧の国体論は秩序を維持していく上で有用だと考えられ、社会的エリート層に支持された。だが、国体明徴運動がもたらした既存秩序の崩壊によって、1930年代後半以降徐々に退潮し、傍流に押しやられた。

 

発表3「戦後における「国体」観の断絶と変容―教育勅語の解釈と宣伝をめぐって―」

長谷川亮一(千葉大学大学院人文公共学府特別研究員、東邦大学薬学部非常勤講師)

 本報告では、1970年代に以後になされた教育勅語の宣伝・広布活動について取り上げ、その中でも特に、明治神宮で頒布されている『大御心 明治天皇御製教育勅語謹解』(明治神宮社務所、1973年)、『たいせつなこと』(明治神宮崇敬会、2003年)、『新版 明治の聖代』(明治神宮、2012年)にそれぞれ収録された、教育勅語の現代語訳について検討する。

 『新版 明治の聖代』の訳文は村尾次郎訳をもとに阪本是丸監修で作成されたもので比較的正確であるが、『大御心』掲載の「国民道徳協会訳」は、「我カ皇祖皇宗」と「爾祖先」に同じ「私達の祖先」という訳を当て、「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」を訳し落とし、「朕カ忠良ノ臣民」が「善良な国民」とされるなど、天皇・国体論にかかわる側面を削ぎ落とし、天皇と臣民と区別を打ち消した意図的な誤訳となっている。類似した性格は、『たいせつなこと』の訳文にも見られる。

 戦後の政治家による教育勅語“擁護”発言においては、人間関係に関する徳目が強調される一方、「忠君」的な要素は否定ないし無視される傾向が見られる。こうした傾向について、『神社新報』1974年5月27日付「教育論議を空騒ぎにするな」は、「田中(角栄)首相あたりも、教育勅語にしばしば言及するが肝腎の皇運扶翼は言はない」と批判している。

 国民道徳協会訳は、元衆議院議員で政治評論家の佐々木盛雄(1908-2001)が、著書『甦える教育勅語』(国民道徳協会、1972年)で公表したものである。現代語訳によって教育勅語を宣伝しようとする活動は1960年代末から見られ、その中には「皇運」を「日本民族」「国」に置き換えようとするものも見られるが、「天壌無窮」を訳し落したのはこの佐々木訳が最初である。1972年に明治神宮財務部長の谷口寛教育勅語に関するパンフレットを企画した際、佐々木訳が「国民道徳協会訳」として採用されたことが、広まるきっかけとなった。さらに国民道徳協会訳は、神社本庁による「教育正常化運動」(1979-82年)、全国敬神婦人連合会発行のパンフレット『教育勅語の平易な解釈』(1979年、『大御心』の抜粋)、「日本を守る会」発行の絵本『たのしくまなぶ12のちかい〈教育勅語から〉』(1979年)などを通じて全国に流布した。これに対して、教育勅語に批判的な立場からは意図的誤訳について数多くの指摘がなされているが、神社神道の側からは、宣伝・教育目的による“方便”と見なれさているためか、特に問題とされている様子はない。たとえば神社本庁講師の石井寿夫は「教育勅語を戦後派に教えるのには、現代っ子にもなじみやすくわかりやすい表現で説きなおす工夫がいる」「現に、普及を志される方々は、しばしば「現代訳」をつけている」(1980年、石井『教育勅語 その現代的意義』あしかび社・事務局、1991年、所収)と説いている。

 

第9回国家神道・国体論研究会「近現代日本における国史学・神道論・国体論の交錯」の御案内

第9回国家神道・国体論研究会
「近現代日本における国史学・神道論・国体論の交錯」

日時
 
平成29年7月29日(土)14:00~18:00
 

場所
 
國學院大學たまプラーザキャンパス1号館306教室
 〔東急田園都市線たまプラーザ駅徒歩5分〕
 

主催
 
日本学術振興会平成29年度科学研究費助成事業(基盤研究(C))「国家神道と国体論に関する学際的研究―宗教とナショナリズムをめぐる「知」の再検討―」(研究代表者:藤田大誠 研究課題番号:15K02060)
 

内容

 14:00~14:05(5分)
 趣旨説明
 藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)司会

 14:05~14:50(40分+5分=45分)
 発表1「アカデミズム史学の分節化と史学史叙述」
 廣木尚(早稲田大学大学史資料センター助教

 〔10分〕

 15:00~15:45(40分+5分=45分)
 発表2「国体論者としての筧克彦―その思想と活動―」
 西田彰一(国際日本文化研究センター技術補佐員、立命館大学客員協力研究員)

 〔10分〕

 15:55~16:40(40分+5分=45分)
 発表3「戦中・戦後における国体論の“継承”と“断絶”」
 長谷川亮一(千葉大学大学院人文公共学府特別研究員、東邦大学薬学部非常勤講師)

 〔10分〕

 16:50~17:10(20分)
コメント
昆野伸幸(神戸大学大学院国際文化学研究科准教授)

 17:10~18:00(50分)
 討議

申し込み方法
研究会の参加は無料ですが、準備の関係上、参加には事前申し込みが必要です。
参加希望の方は、たいへんお手数ですが下記URLを御確認の上、お申し込み下さい。

第9回国家神道・国体論研究会 「近現代日本における国史学・神道論・国体論の交錯」 – 國學院大學

第8回国家神道・国体論研究会「近代日本の環境形成と宗教・ナショナリズム」の報告

 本科研共同研究では、平成29年5月27日(土)14:00~18:30、第8回国家神道・国体論研究会「近代日本の環境形成と宗教・ナショナリズム」を國學院大學たまプラーザキャンパス1号館306教室において開催し、首都圏や近畿地方から、多様な分野の研究者23名が参加した。藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)の司会のもと、問芝志保(筑波大学大学院人文社会科学研究科哲学・思想専攻一貫制博士課程、國學院大學研究開発推進機構研究補助員)、岩田京子(立命館大学大学院先端総合学術研究科研究生)、河村忠伸(秋葉山本宮秋葉神社権禰宜國學院大學研究開発推進機構共同研究員)の三氏による発表があり、それらを受けて畔上直樹(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)、藤本頼生(國學院大學神道文化学部准教授)の両氏がコメントし、当日の参加者を加えて活発な討議が行われた。各発表の要旨は以下の通り。

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発表1「明治の墓癖家と名墓保存運動」

問芝志保(筑波大学大学院人文社会科学研究科哲学・思想専攻一貫制博士課程、國學院大學研究開発推進機構研究補助員)

 明治~昭和戦前期という時間をかけて「近代的」とも言うべき先祖祭祀の観念や実践が形成されていく過程で、名墓(偉人名士や文人墨客など、著名人の墓)をどのように扱うべきかという問題が生じた。本発表では、そのなかでも明治33年(1900)に起こった、東京における「墓癖」団体結成ブームを取り上げた。墓癖とは当時「名墓を巡る趣味」といった意味で用いられた語である。彼らがどのような目的で何を成し遂げたか、誰の墓を「名墓」とみなし文化財として保護すべきという考えが生まれていったのかを、新聞・雑誌・機関誌等の資料を用いて検討した。

 明治32年、政治・学術的エリートが名を連ねた団体として発足した「帝国古蹟取調會」の影響を受け、明治33年以降、「墓癖家掃苔會」、「東都掃墓會」といった、墓癖家・好事家を自称する東京の趣味人たちによる在野のサークルが続々結成された。彼らは情報交換をしたり、皆で探墓の遠足をしたりといった活動も行っていたが、何よりも、名墓を調査記録し、保存することを主目的とした。機関誌には、近世の儒者文人、役者、遊女や侠客といった墓を対象とし、墓碑のスケッチ、碑文、所在地、事跡を顕彰する伝記文が大量に記されている。

 墓癖団体は、そのメンバーシップから好古會などの「江戸趣味」や、歴史、地理、考古好きのネットワークのなかで生まれた団体と位置づけられる。では、彼らはなぜこれほどまでに墓の調査に情熱を燃やしたのだろうか。彼らの言説から見えてくるのは、明治30年代頃からの東京の変貌、産業化の進展、外国人観光客の増加といった激動のなかで、名墓が続々失われていく状況に対する強い危機感である。団体を結成し、まず名墓の場所を特定し、記録、周知することで、ゆくゆくは保存事業に貢献しようと考えたのである。

 こうした墓癖団体の活動は新聞・雑誌等でも「流行」として取り上げられるなど世間から注目を集め始めていたが、中心メンバーが次々と災難に遭ったことや、日露戦争を理由として、わずか数年で終幕した。直接的な名墓保存事業に着手することができなかったことは、民間団体としての活動の限界を示していよう。しかし彼らの業績はその後、一般向けの名墓観光案内書に用いられるなど名墓の周知に貢献し、また大正期以降の在地偉人名墓保存を目指す諸活動の下地を形成することにもなった。以上みてきた明治33年の「墓癖」ブームを、昭和7年(1942)創立の「東京名墓顕彰會」が提唱した「掃苔道」との比較という観点から歴史的に位置づけることが今後の課題である。それによって、「20世紀の近代国家によるナショナリズム発揚のツール」にとどまらない、名墓をめぐる観念と実践の歴史的構築過程がさらに明らかになってくると考えられる。

 

発表2「都市近郊の環境管理に関する知見と思想―昭和戦前期の京都を事例に―」

岩田京子(立命館大学大学院先端総合学術研究科研究生)

 近代の環境管理は、林学や造園学の科学的知見に支えられてきたという側面をもつ。京都では昭和戦前期の前後に、市街地を囲む郊外の山林等の管理(公園的利用や風致保存)に対する林学や造園学の影響が重要な意味をもっていたことが、先行研究でしばしば指摘されてきた。そうした研究の焦点のひとつは、自然環境と都市空間の関係を再構築しようとする同時代の取り組みである。これまで都市改造・都市計画における官吏の役割と施策の動向のほか、テクノクラートが都市の経営を実質的にリードしていく行政体制の分析が進められてもいる。しかし、官僚をはじめとする高学歴の学識者が様々なかたちで「専門知」を媒介に京都で活動を展開したことの歴史的位置づけは、あまり注目されていない。

 今回の発表では、昭和戦前期の京都の環境形成に関わる「知識人」たちの動向を検討した。具体的には造園学を専門とする京都府技師・寺崎良策の事績と、林学を専門とする京都府立京都農林学校教諭・新見波蔵の思想について考察した。その際、彼らが「煩悶の世代」と称される思想家・活動家たちと同世代の知識階級であることを念頭に置きながら、同時に、世代というくくりに回収され得ない、彼らの専門家としての立場の幅をとらえることを試みた。

 農学者の寺崎は、東京帝国大学農科大学農学科を卒業後、明治神宮内苑の造営に携わったのち、大典紀念京都植物園の創設事務を担当した。彼は農学・園芸学の新しい知見を伝える知識人たちの活動の場たる京都園芸倶楽部の発足や、京都市周辺のいくつかの施設で造園設計の主要な役割をはたした。とくに、先行研究が示すように、大正期の伏見稲荷神社神苑では植栽の面でアカマツを主体とした森づくりを目指す、一種の神社風致観──神社林を対象にした森林美学にもとづく──に則った空間づくりを計画したことがわかる。

 他方で、新見は、東京帝大農科大学林学実科を卒業後、日本各地で農林学校教員や技術官僚として活動した。その後京都で暮らした彼の論説からは、近郊の森林風致等についての提言とともに、資本主義のもと苦境に陥る農山村の人々に自己改革を訴えたり、修養主義にもとづき、「国体」のような観念にも接近する独自の思想をうちだしたりする、社会活動への志向を読み取ることができる。つまり、彼の著作からは、造園的な美学や林学における森林美学が宗教・ナショナリズムとむすびつく契機がうかがえる。

 こうした造園学・林学の実践において、寺崎と新見は、地域社会の事情をふまえながら中央由来の知見と在地の論理をつなぐ媒介者の役割をはたしたことが明らかになった。

 以上の発表をふまえ、討議では、発表者がとりあげた事例を林学や造園学に限らない多くの分野におけるテクノクラートの思想や活動と比較検討する必要性が指摘されたほか、新見の思想形成の背景と変遷について、同時代の多様な経済思想と対比しながらより深く読みこむ議論が行なわれた。

 

発表3「「国家ノ宗祀」による神社概念の変化」

河村忠伸(秋葉山本宮秋葉神社権禰宜國學院大學研究開発推進機構共同研究員)

 「国家ノ宗祀」とは「本来神社が個人的な信仰の対象として祭られるものでなく、国家が尊び祀るものであることを明らかにした」(神祇院『神社本義』、神祇院、昭和19年)語、戦前期の神社神道を象徴する語として広く神社関係者に用いられた。しかし、阪本是丸(『国家神道形成過程の研究』、岩波書店、平成6年)が考証した通り、法令としての初出である明治4年5月14日太政官布告における「国家ノ宗祀」という語には「修飾」以上の意味は見出せない。

 神社行政に携わった内務官僚の言説を比較検討すると、「国家ノ宗祀」が本来の修飾語から飛躍して布告そのものを象徴する語として扱われていることが確認できる。本布告は法制史上、神社の物的・人的設備が国家に帰属する体制を構築した法令と評価でき(河村忠伸『近現代神道の法制的研究』、弘文堂、平成29年)、全ての神社制度の起点となるものである。加えて、このような近代神社制度は国体と神社が一体であるという歴史及び思想に起因するものと考えられため、国体と神社を一体とする思想も「国家ノ宗祀」の名称で表現されるようになった。

 内務官僚の用いる「国家ノ宗祀」とは制度と思想が一体化したものである。しかし、神社制度調査会の議事録を見る限り、内務官僚の学説や制度史が周知されていなかったことは明らかである。そのため漠然と重要な用語とだけ認識され、かつ修飾語として優秀であったために、各論者の定義によって自由に「国家ノ宗祀」が語られる環境にあった。実際に美辞麗句や「神社」の枕詞として深い意味を持たないまま用いられることもあれば、論者が自己の神社観・祭神観を付加し、或は全く独自の神社観の名称として用いられるなど用法は多彩である。

 このように「国家ノ宗祀」は定義が統一されないまま、国家と神社の関係を示した重要用語として無制限に多用された経緯を有する。各用例の定義を明らかにしないまま、この語を基準に近現代神道史を分析するのは、その本質を見失い、混迷した戦前期の議論の二の舞を踏むことにもなりかねない。研究上は「国家ノ宗祀」が多義的な用語であることを前提にして、制度と思想を区別し、論者の意図する内容を正確に考察する姿勢が求められるであろう。

 葦津珍彦は「国の神祇制度上、神宮神社を法制的に『国の宗祀』として復古する希望が消えたとしても、神社の精神の本質が、『日本人の社会国家の精神的基礎である』との信条を死守する線からの退却は、決して許されない」(『神祇制度思想史につき管見―本庁講師教学委員辞任に際して―』、昭和58年)と述べた。この用例は内務官僚などの神社行政を推進した立場の定義に近く、近代神社制度は解体されても、国体と一体であるという思想信条は護持されるべきとの主張は神社本庁設立に参画した当事者の意識として、近現代神道史における重要な証言である。

第8回国家神道・国体論研究会「近代日本の環境形成と宗教・ナショナリズム」の御案内

第8回国家神道・国体論研究会
「近代日本の環境形成と宗教・ナショナリズム

日時

平成29年5月27日(土)14:00~18:30

場所

國學院大學たまプラーザキャンパス1号館306教室

東急田園都市線たまプラーザ駅徒歩5分〕

主催

日本学術振興会平成29年度科学研究費助成事業(基盤研究(C))「国家神道と国体論に関する学際的研究―宗教とナショナリズムをめぐる「知」の再検討―」(研究代表者:藤田大誠 研究課題番号:15K02060)

内容

14:00~14:05(5分)
趣旨説明
藤田大誠(國學院大學人間開発学部教授)司会

14:05~14:50(45分)
発表1「明治の墓癖家と名墓保存運動」
問芝志保(筑波大学大学院人文社会科学研究科哲学・思想専攻一貫制博士課程、國學院大學研究開発推進機構研究補助員)

〔10分〕

15:00~15:45(45分)
発表2「都市近郊の環境管理に関する知見と思想―昭和戦前期の京都を事例に―」
岩田京子(立命館大学大学院先端総合学術研究科研究生)

〔10分〕

15:55~16:40(45分)
発表3「「国家ノ宗祀」による神社概念の変化」
河村忠伸(秋葉山本宮秋葉神社権禰宜國學院大學研究開発推進機構共同研究員)

〔10分〕

16:50~17:20(30分)
コメント
畔上直樹(上越教育大学大学院学校教育研究科准教授)
藤本頼生(國學院大學神道文化学部准教授)

17:20~18:30(70分)
討議

申し込み方法
研究会の参加は無料ですが、準備の関係上、参加には事前申し込みが必要です。
参加希望の方は、たいへんお手数ですが下記URLを御確認の上、お申し込み下さい。

第8回国家神道・国体論研究会 近代日本の環境形成と宗教・ナショナリズム – 國學院大學

第3回宗教とナショナリズム研究会「帝国日本における神社・学校・身体―神道史と教育史、体育・スポーツ史を架橋する試み―」の報告

 本科研共同研究では、平成29年3月23日(木)午前9時~午後5時半、第3回宗教とナショナリズム研究会「帝国日本における神社・学校・身体―神道史と教育史、体育・スポーツ史を架橋する試み―」を國學院大學たまプラーザキャンパス1号館AV1教室にて開催した。神道史や宗教史、宗教社会学、日本近現代史、教育史、体育・スポーツ史、日本思想史、民俗学政治学憲法、文学、法制史、建築史、都市史、仏教史、キリスト教史、比較文化など、専攻分野を異にする研究者ら32名が集まり、首都圏のみならず、北海道、北陸、東海、近畿など遠方からも来場があった。5つの発表では、それぞれ活発な質疑応答が行われた。また、研究会終了後には、キャンパス内「カフェラウンジ万葉の小径」において研究交流会を行った。

 今回の研究会における各発表の要旨は以下の通り。

 

発表1「昭和戦前期における学校教育の質的転換―宗教性に着目して―」

井上兼一(皇學館大学教育学部准教授)

 本発表では、昭和戦前期の学校教育について、とりわけ明治期から続く初等教育がどのような変化を見たのか、学校教育の目的規定に着目して検討した。

 1890(明治23)年10月7日に公布された小学校令(勅令第215号)の目的(第1条)は、わが国小学校の教育目的を初めて定めたものであり、児童の発達段階を考慮して、道徳教育、国民教育の基礎、そして生活に必須の普通の知識技能を授けることを謳い、1941(昭和16)年3月1日の国民学校令(勅令第148号)改正まで、約半世紀にわたり不変であった。国民学校の目的(第1条)は、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」であったが、そこで育成される人間像(「臣民」→「皇国臣民(または皇国民)」)の違いは何か、先行研究においても、その概念の規定は明確にされていない。

 1890年の小学校令で想定された臣民像(小学校で育成される人間像)については、宗教的要素は含まれていなかった。これを前提に考えれば、大正から昭和期にかけての宗教教育政策の変遷(政教分離の緩和)は、明治期から続く学校教育の原則が緩和する歩みであったことを意味したと思われる。とりわけ、1935年の文部次官通牒において、教育ニ関スル勅語を原則にしてはいるが、宗教的情操教育を推進することを打ち出したことは、小学校教育においては大きな変革であったであろう。

 1935(昭和10)年の文部次官通牒「宗教的情操ノ涵養ニ関スル留意事項」以後、教育内容・教材における仏教的教材の変化や神道の概念登場、教育審議会における概念の解釈(「敬神崇祖」を道徳の概念として解釈したこと)などから、昭和戦前期の学校教育改革を考える際、「宗教性」というキーワードを抜きに語ることはできないのではないか。

 教育審議会での宗教をめぐる議事経過を検討すると、宗教教育の推進派と反対派が見られたが、最終的には「敬神崇祖」と表現が変わり、国民の良習美俗また道徳に関する意味として理解された。これは神道に関係する概念であるが、これが教育内容に含まれたことは、国民学校で目指される人間像に含まれることを意味すると思われる。

 明治後期以降、学校教育においては政教分離という方針がとられてきたが、先の文部次官通牒は、その方針転換になる契機であり、学校教育には宗教的性格が付与されるようになってきた。小学校令における臣民と国民学校における皇国臣民(皇国民)は異なるものであり、その違いには宗教性の有無が関係しているものと考えられる。ただし、検証それ自体はまだまだ精緻化する必要がある。そもそも、国民学校令第1条の成立過程に関する史料が無く、それが明確ではないため傍証的検討にとどまっている。そのため、別の意味が付与されている可能性が高い。教学刷新評議会の答申・建議と教育審議会との関連性があることも予想される。当時においては、国民学校の解説本が数多く公刊されているため、そこでの解釈を検証することも今後は必要かもしれない。

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発表2「帝国日本の御真影

樋浦郷子(国立歴史民俗博物館研究部准教授)

 教育史研究では、教育勅語御真影は近代教育のふたつの大きな道具立てと考えられてきたものの、教育勅語に比して御真影とその奉護体制に関わる研究が著しく少ない。「「高き」から「卑き」へ、国家機構上での「近き」から「遠き」へと段階的に推移していく」と指摘した佐藤秀夫の見取り図が論証されずに20年以上が経過したが、発表者は近年、これを精緻化することが必要と考えて御真影の研究を進め、特に植民地への下賜について調査、検討することで帝国の内実と構造に接近したいと考えてきた。単に修身・道徳の教育史を研究するのではなく、現代における「隠れたカリキュラム」の語に象徴されるような、学校の規律・文化の成立についても展望することを目指している。本発表では、主に宮内公文書館所蔵『御写真録』を典拠としつつ、現地調査の成果によって、日本にとって初めての植民地となった台湾への下賜と奉護を中心に叙述し、必要に応じて朝鮮についても言及した。

 台湾への初期の御真影下賜は、1895(明治28)年以降における軍機関に対してのものである。学校下賜の起点は1920(大正9)年、台湾において12庁制から5州2庁制となることと関わる移動(「転載」)である。台湾人対象初等学校へは1927(昭和2)年10月に開始された。全学校数に対する下賜済みの割合が3・6%、日本人対象小学校は26・7%、台湾人・日本人共学の中等・高等教育機関は80%台から100%の割合となっている。

 一方、朝鮮においては、併合前は外交ルートによる御真影下賜の事例が見られるが、植民地期における学校への御真影下賜の割合は全体で7・2%、特に朝鮮人対象校への初の下賜は1937(昭和12)年末であり、台湾と相違している。

 現地調査により、空間的に隣接している台南市新化尋常小学校(下賜済)の奉安殿と新化公学校(未下賜)の奉安庫の状況を確認し、発表の中で示した。台湾では、その気候(亜熱帯、熱帯)に適合的な「奉安」体制は考案されず、「内地」の金庫型奉安庫で「奉護」する例が多かったが、実際には道具立てとしての役割を十全に果たすことが困難な状態だったと推察される。

 台湾と朝鮮への御真影下賜は、その始まり方の相違とともに、台湾人、朝鮮人対象初等学校への非下賜傾向という類似が見られる。今後は、御真影「奉護」とその体制、明治・大正期から昭和期への展開などを検討することが課題である。

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発表3「体操とナショナリズム―集団体操の国民的普及と国家政策化―」

佐々木浩雄(龍谷大学文学部准教授)

 1920年代までに学校体操は確立したが、社会への体操普及は進んでいなかった。1930年代前後の時期からは体操指導者たちが新しい体操を追求し、体操が学校という枠を超えて社会化・国民化への道を開拓していく新たな「体操の時代」が始まる。しかし、この「体操」の時代は体操界の力のみで到来したのではない。体操はいわゆる十五年戦争の始まりともなって陸軍省から発せられる国民体位低下の声や昭和12年(1937)の日中戦争開戦、昭和16年(1941)のアジア・太平洋戦争への突入など、戦時体制下における国民体育振興の掛け声を追い風に、集団体操という形で躍進していった。体操指導者たちは学校体育という枠を出て自分たちの存在意義を国民体力向上と国民精神涵養という国家的課題のなかに見出し、新しい体操の創案や普及に力を注いでいった。国家的使命を自ら背負った彼らは、体操の効果を身体的なもののみにとどめず、国民精神涵養という点に力を置いた。また、真に「国民的な」ムーブメントにするために体操そのものを欧米からの移入物ではなく、日本独自のものに刷新していこうとする「体操の日本化」の動きも見られるようになる。本発表では、体操とナショナリズムとの親和性、国民への体操普及(1928~1936年におけるラジオ体操の成功)、体操の国家政策化(1936~1940年における儀礼としての体操大会とラジオ体操の会)、体操の日本化(国家主義・国体論と体操)を論じた。

 欧米から移入した合理的運動方法としての体操が追求される一方、1930年代には集団体操を通じた民族的団結が強調され、肇国神話や武道を題材にして日本の独自性を強調する体操が創案・実施されるようになる。特に治安維持法改正時の内務省警保局長で1930年代の思想善導策や文化統制事業を推進した松本学が体操界の中心人物である大谷武一らとともに創出・普及した「建国体操」(1936年創案)は、1930年代の「体操の日本化」の象徴的な事例である。また、建国体操や朝鮮で実施された皇国臣民体操に共通しているのは、武道や神道という日本の伝統的な技法・作法を基にして作られ、いずれも建国精神や日本精神の涵養といった精神的要素を強調する「純日本式」の体操を指向したことにある。このような体操はすでに、1910年代から20年代にかけて、元海軍軍医総監であった高木兼寛が川面凡児の禊行をもとに考案した体操「国民運動」や、1920年頃より法学者(東京帝大教授)の筧克彦が発表した「皇国運動」「日本体操」(やまとばたらき)があったが、特に後者は1930年代後半以降の社会状況で脚光を浴び、農本主義と結びついて一種の「行」として位置づけられ、満蒙開拓青少年義勇軍岩手県六原青年道場などで実践された。

 ナショナリズムという概念は、民主的に国家を形成・発展させようとする「国民主義」と、国家の権威や意志を第一と考える「国家主義」という両義性を有する。1930年代の体操は、国民主義的に実践されると同時に国家主義的に推進されることとなった。体操を通じて見ても、国民主義のなかに国家主義が膨張する契機が胚胎していたことが指摘出来るが、健康・体力の問題は健康で文化的な生活を求める国民主義的課題でもあり、戦時体制を支えるための国家主義的課題でもあったことから、集団体操には国民精神涵養という機能も期待され、体操指導者たちも国家的使命を得て体操を作り、指導したのである。

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発表4「植民地朝鮮における「花郎」言説と兵的動員―朝鮮半島における軍事性の正当化―」

金誠(札幌大学地域共創学群人間社会学域准教授)

 本発表は、文化的事象が動員にどのように結びついているのか?という点について、「花郎」(ファラン)に関わる言説に着目し、その分析を通して植民地朝鮮における「花郎」言説の意義について考察しようとするものである。

 1949年発行の『朝鮮歴史読本』第二篇には、「花郎制度というのは二人または数人の美少年を粉飾させ、それらの花郎を中心として多数の青年が集り、各々組をつくつて、歌舞、祭儀、祈祷、性的行事、聖地の巡礼、武術などを競争し錬習するもの」で「新羅王朝の軍隊編成と関連をもち、花郎の集団は国防軍の中枢をなした」のであり、「李朝以後においては、再びシャーマニズムと結びついて賤民的身分を構成する一つの要素をなしている」と記されており、シャーマニズム的なものから軍事性を帯びたものへと転化し、その後またシャーマニズム的なものへと回帰したことを述べている。植民地期の花郎研究の系譜を辿ると、植民地朝鮮における「花郎」言説に特に影響を与えたのは、池内宏・三品彰英花郎研究であり、とりわけ白神寿吉の言説は池内の研究によるところが大きい。

 なお、朝鮮人志願兵制度の導入とその懸念について、朝参密代七一三号「朝鮮人志願兵問題二関スル件(回答)」(1937年11月)に拠れば、①志願兵制度の朝鮮統治上に及ぼす具体的効果の程度、②志願兵制度の施行と共に総督府に要求すべき具体的条件、③志願兵制度の利害対策および将来における実績の見込みが検討され、「除隊帰郷ノ後鮮人青壮年層ノ中堅的存在トシテ郷党閭里ニ及ホス有形無形ノ効果」が期待されていた。

 学徒志願兵の情況は、「朝鮮出身兵の取扱指導の要注意事項」(陸密第二五五号別冊第九号「軍紀風紀上等要注意事例集」(1943年1月28日)1944年9月陸軍省印刷)において朝鮮人学徒兵らの軍隊からの逃亡が精神的傾向に起因していると分析され、徴兵制の実施に伴い、朝鮮人兵士についての対策、特に教育の重要性が確認されている。

 「花郎」言説と兵的動員への結びつきは、李朝(朝鮮王朝)期の武に対する否定的態度や軍事性の欠落についての指摘を前提として、「新羅人の有した此の挙国一致、尽忠報国の大精神は、我が二千六百年の国史を通じて流れる日本精神、大和魂と全く相通ずる」(「内鮮一体精神 新羅武士道」『文教の朝鮮』1940年2月号)ことが見出されたことにある。朝鮮半島における兵的動員において重視された学校と陸軍兵志願者訓練所と関わる形の「花郎」言説に着目すると、訓練所においては、花郎の精神を花郎道として武士道と同一視したうえでその精神性と軍事性との結びつきについての講話が常になされていたのである。

 朝鮮人を兵士として動員するときに「花郎」にかかわる言説が朝鮮人青年と軍事性を結びつけていた。この「花郎」はまた朝鮮人自身が植民地支配を受けることになった李朝(朝鮮王朝)を否定し、民族の強さを求める憧れの思想でもあり、そこに支配者側の論理が加わったとき、本質主義的な朝鮮人の「文弱」は廃棄され、朝鮮人の軍事性は日本の武士道と結びつけられた「花郎道」によって正当化されることになった。朝鮮人志願兵の実際を確認すると、武士道と結びつけられた「花郎道」の必要性は支配者側が作り出せねばならなかった論理でもあり、そうしなければ若き朝鮮人青年らを徴兵して兵士として動員することに躊躇せざるをえない状況でもあったことが理解されるのである。

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発表5「昭和戦前期の国体論と神社・学校・身体」

藤田大誠(國學院大學人間開発学部准教授) 

 本発表は、「昭和戦前期の国体論」を補助線として、近代神道史と日本近代教育史、日本近代体育・スポーツ史を架橋する試みである。そもそも、表題とした「昭和戦前期の国体論と神社・学校・身体」といふ問題設定は、果たして生産的な意義を有するものになり得るのだらうか?もちろん「神社」「学校」「身体」は、「神道」「教育」「体育・スポーツ」と直接に関はる〈場〉や〈担ひ手〉であるが、より詳細にいへば、〈場〉としては、「神社境内」「学校空間」「運動場・競技場・武道場」、〈担ひ手〉としては、「神職神道人」「教職員・教育者」「体操指導者・競技者・武道家」などが挙げられ、どの点に注目するかによつて論じ方も異なつてこよう。また、この三要素の接点をどこに見出すか、或いは相互影響関係を如何に捉へるか、日本「本土」と「植民地」のどちらを対象とし、或いは「帝国日本」全体をフィールドにするのか、によつても変はつてくるだらう。それ故、ここでは今回の発表者たち(井上兼一・樋浦郷子・佐々木浩雄・金誠・藤田大誠)による先行業績を手掛かりとしてこの課題にアプローチした上でささやかな問題提起を行ひ、幅広い学際的な議論を誘発してみたいと考へた。

 ①井上兼一による昭和戦前期の国民学校と「宗教的情操」に関する研究、②樋浦郷子による「植民地朝鮮」における児童の神社参拝と「御真影」に関する研究、③佐々木浩雄による戦時期における集団体操と「身体の国民化」に関する研究、④金誠による「植民地朝鮮」における身体運動(「朝鮮神宮競技大会」「皇国臣民体操」)に関する研究、⑤藤田大誠の「近代国学」「神社神道」と教育との関係、「明治神宮体育大会」に関する研究を踏まへると、五者は、昭和戦前期(一九三〇~四〇年代)を対象とする(或いは含む)歴史的研究といふ点では共通するとはいへ、その研究対象がそれぞれ多種多様であるだけでなく、学問分野(神道史、教育史、体育・スポーツ史)やアプローチ法、対象地域(日本「本土」、「植民地朝鮮」)、学問を志す前提や現実の社会問題と接続する志向性(誤解を孕む表現かも知れないが「思想信条」性と言つても良い)としての各自の「バイアス」の掛かり方など、当然その殆どは相違する部分ばかりである。しかし、いづれも「神社」(神道)・「学校」(教育)・「身体」(体育)の領域に跨る課題を対象にしてゐるとともに、昭和戦前期における「国体論」に接続された「宗教性」「精神性」の浮上を具に捉へ、その一面的ではない構造解明を目指してゐる点で共通する面を持つといへよう。

 その上で本研究会全体を貫く論点として、(1)大正・昭和戦前期に浮上する「国体論」と「宗教性」「神秘」「精神性」「敬神崇祖」との関係、(2)近代日本の「国民」化・「国民統合」化の手段としての「身体の規律・訓練」と「国体論」との関係、(3)「総力戦体制」下の「錬成」は、「神社」(神道)・「学校」(教育)・「身体」(体育)を結び付けたか?といふことが挙げられる。結局、「神道」「教育」「体育」は〈主体〉たり得たのだらうか?或いは「動員」されるべき〈資源〉や〈手段〉だつたのか?「総力戦体制」下において「動員」の媒介とされた諸言説や身体規律・訓練の実質的効果はどうだつたのか?といふ点が今後の学際的諸課題になると思はれる。

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